筆録
 
2006年
 
1月
五観の偈(普段の食事の前にお唱えを致しましょう。)
一(ひと)つには、功(こう)の多少を計(はか)り、彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二(ふた)つには、己が徳行の、全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず。
三(み)つには、心(しん)を防ぎ過(とが)を離(はな)るることは、貪等(とんとう)を宗とす。
四(よ)つには、正(まさ)に良薬を事(こと)とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
五(いつ)つには、成道(じょうどう)の為の故に、今此の食(じき)を受(う)く。
インドにおいて原型がなされ、中国宋代にてほぼ現在の形に整えられる。道元禅師様は、その著「永平大清規(えいへいだいしんぎ)」に引用された。
【注】
功(こう)の多少 : どれほど多くの手数がかかっているかということ。
来処(らいしょ) : 来たところ。
全欠(ぜんけつ) : 完全に備わっているか、欠けているか。
貪等(とんとう) : 貪欲・怒り・愚痴。
形枯(ぎょうこ) : 肉体が痩せ衰えること。

五観の偈(大意)
第一に、今目前におかれている食事ができあがってくるまで、如何に多くの手数かかかっているかを考え、それぞれの食材がここまで来た経路を思いめぐらしてみましょう。現在、私達の食卓には世界の各地より運ばれてきた食材が豊富に並んでいます。しかし、これらの食材がどのような人々の苦労によって作られ、どのような人たちの労働によってここにあるかを考えないことが多いのです。それらに思いを馳せながら、「一粒の米」「一片の副食物」といえども無駄にはできません。
第二に、この食事を受けることは、数多くの人たちの供養を受けることに他なりません。自分はその供養を受けるにたるだけの正しい行動ができているかどうかを反省して、食事をいただかなければなりません。中国・唐の百丈懐海禅師(ひゃくじょうえかいぜんじ)様は、「一日作(な)さざれば、一日食(しょく)さず。」と仰いました。この言葉も思い出してみましょう。
第三に、迷いの心が起きないように、また過ちを犯さないように心がけることが大切ですが、貪りの心、怒り憎む心、道理をわきまえない心、すなわち貪(とん)・嗔(じん)・痴(ち)の三毒に陥らないように、食事のときも同様に気をつけましょう。
第四に、このように食事をいただくことは、それがそのまま良薬をいただくことであり、それは修行している自分の身が痩せ衰えるのを防ぐためであって、ただ空腹を癒すためだけではありません。《医食同源》という言葉がありますが、この語の歴史は浅いのですが、その具体的な思想は、この「良薬を事(こと)とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。」の言葉の中にあります。
第五に、仏道を成就するために、今こうして食事をいただくのであって、ただ美味だけを求めてはなりません。

あけましておめでとうございます。今年こそ「戌年」にあやかり、「wonderful!」な年になればと願っておりましたが、なかなか現実は厳しいようです。
さて、今月は「五観の偈」を掲載させて頂きました。「偈」とは、お釈迦様を初めとした、お祖師様方の「お徳」や「み教え」を詩句によって示したもので、「五観の偈」とは「お食事をいただく心」を説いたものです。私達は、「働くために食べるのか、食べるために働くのか。」ということを認識しなければなりません。食べるためだけに働くのであるならば、それは動物と同じ生き方ということになります。つまり、自己の欲のためだけに生きることと同じなのです。
昨年暮れは、マンションやホテルの耐震偽装問題、年が明け1月にはライブドアの証券取引法違反疑惑、大手ビジネスホテルチェーン「東横イン」による不正改造問題、そして防衛施設庁発注の建設・土木工事を巡る官製談合事件など、次々と大きな社会問題が起きています。話題の中心となっている人たちは、「お金」を得るためには法令違反は当たり前の体質になっていることが、問題の発端であることは明らかでしょう。これはまさに、「食べるために働く」典型であるといえます。それは、「口に身と心が使われている」ということなのです。つまり、我欲を癒すためだけに働いているに他なりません。
私達は「働くために食べる」のです。そして、それはどんな小さな事であれ、「何か使命の為に命を繋がなければならない」のです。人間の心はとても弱いものです。「何のために生きるのか」「何のために食べるのか」と、機に応じて自問自答をしていないと、自身が自覚をしないうちに足を踏み外してしまいます。
そして最後となりましたが、私達は生きさせて頂いていることを、自覚しなければなりません。人間が食べているものは、すべて生命があったものなのです。私達に食べられるためだけに生まれてきた、何十万・何百万・何千万という生命、その限りない生命の犠牲の上に生きさせて頂いているのです。人間は土や砂を食べて生きていくことはできません。それらの多くの生命に対して、心からの感謝と懺悔(さんげ)の「合掌」であり、「いただきます。」でなければならないのです。
 
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