1月30日(金)
三蔵法師紀行
祇 園 精 舎
玄奘はガンジス川を下りました。このとき、盗賊に襲われます。九死に一生を得て、プラヤーガ国に至ります。ここは現在のアラハバート市で、ガンジス河とヤムナ河が合流しているところです。合流地点は聖なる場所とインドでは考えられ、七大聖地の一つとなっています。
玄奘は、水浴して身を清めることに対しては理解を示しましたが、断食して河で溺れることによって天界に生まれ変わろうとする者がいることに対しては大いなる疑問を抱きました。玄奘はガンジス河を越えてヴィシャカ国を抜けると、いよいよ仏跡の巡礼を始めました。
祇園精舎は、ネパール国境近くのコーサラ国の長者が、釈迦による自国の教化を願って寄進したものです。長者の名はスッダッタといい、かねてからよるべのない人々に施しを行う慈悲の心を持った人でした。
お釈迦様はここで20回以上の安居(あんご)を過ごしたと伝えられています。安居は雨安居(うあんご)ともいい、雨期を避けて、洞窟や僧院で静かに修行することです。雨季は、往来が困難なことに加えて、動植物が生育する時期なので、無理して出歩いてこれれらを損なわないようにするのです。
祇園精舎は、イギリスの学者カニンガムによって、19世紀中頃に発見されました。彼は、法顕や玄奘の記述をもとに、現在サヘートとマヘートの両村を発掘し、ここがかつてコーサラ国のあった所で、サヘートの森が祇園精舎であると推定しました。
5世紀初めに法顕が訪れた時は、花が咲き乱れて美しいと記された祇園精舎ですが、玄奘が訪れた時は、お釈迦さまがお亡くなりなってからすでに千年以上経っていましたので、石柱が2本だけ残り他の建物は悉く崩壊し廃墟と化していました。このことから、玄奘がインドに訪れた時は、仏教はすでに衰退の兆しをみせていたことを伺い知ることができます。現在、お釈迦さまが説法された台座や僧院の跡が残っており、インド政府によって管理されています。写真は「祇園精舎香堂」の遺構です。