筆録
 
2013年
 

観音信仰の広まり

平安期の貴族たちや鎌倉幕府の武士がしばしば観音様に参詣したことはいろいろな文献に散見できますが、一般庶民はどうだったのでしょうか。藤原道綱の母が書いた「蜉蝣日記」に次のような記述があります。「乞食どもが食器や炊事道具を並べており、せっかく身を清めたのにこんな汚いものを見せられては長谷観音の霊験もなくなってしまうようだ。」全くとんでもない感想です。「枕草子」にいたっては、「早く仏様を拝みたいのに芋虫みたいな見苦しい連中が前にいて、押し倒してやりたい気分だ。」などとあり、仏教の何たるかを少しもわかっていないようです。こうした記述からも分かるように、庶民は大変な苦労をして、それでも観音様を拝みたい一心で参詣しました。

こうした事情が変わるのは室町時代で、京都五山の僧が書いた「竹居清事」「天陰語録」には、三十三所巡礼某国某里と書いた布を背に貼った巡礼者が村里に溢れるようになったとあります。室町時代は稲作技術の進歩がきっかけとなって商業が発展し、各地に市が立つようになって、庶民も経済的な力を付けてきた時期です。鎌倉期に整えられた板東の札所には、関東だけでなく遠く東北地方からも人々が訪れたことが、中尊寺に納められた巡礼札によって判明しています。

観音講が起こったのもこの頃です。観音講には二通りあって、ひとつは村落で毎月定期的に集会を開き、観音様の掛け軸や像の前で勤行を行うもので、観音の縁日といわれる18日が多かったようです。もうひとつは遠隔地の観音霊場に参詣することで、そのための掛け金を積み立てました。


また、巡礼歌の成立もこの時代とみられています。巡礼歌は和歌や韻文、和讃に節を付けたもので、宗派によって節は異なりますが、そのメロディーは深く心を打ちます。元々、聖なるものを前にした時の感動を歌に詠むという指向はとりわけ日本人に顕著で、「言霊のさきおう国」(言葉の力で幸福がもたらされるという意味)というのが我が国の美称となっていることからもわかります。巡礼歌は江戸時代からは御詠歌と呼ばれるようになり、現在も各地で御詠歌のコンクールが開催されています。

 
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