2.「 鹿 」
平安時代の宮中年中行事の一つである釈奠(せきてん・孔子とその弟子を祀る行事)は、二月の最初の丁(ひのと)の日に行われ、供物として鹿が捧げられました。鹿は縄文時代から、狩で最も多く捕獲された動物で、平安時代の都周辺では多数生息していました。奈良時代まで食料とされてきましたが、天平二年に鹿の殺害が禁止され、鹿を殺して食べた役人が罰せられたと書物に載っています。普段は殺傷しないからこそ、供物として捧げられたということでしょう。しかし平安末期になると貴族のあいだで再び食せられるようになり、専業の猟師もいました。弓矢で射るほか、さまざまな罠が工夫されました。
ちなみに鹿と罠についてお釈迦さまが説法をされています。
仏教で鹿といってまず思い浮かぶのはサルナート(鹿野苑)でしょう。お釈迦様が最初に説法をなさった場所で、別名「仙人堕所」といわれます。空中を飛んでいた仙人がここに落ちて住む所といわれ、鹿と仙人は結びつけられています。日本においても鹿は神の使い、あるいは神が鹿となって現れるとして神聖視されてきました。初転法輪にふさわしいこの地で、お釈迦さまは鹿を例にとって次のように説かれました。
「野生の鹿が猟師の仕掛けた罠にはまると猟師の意のままにされてしまう。五官が欲望にとらわれると、罠におちた鹿のように不幸に陥る。智慧によって欲望をおさえることができれば、いつでも自由で平穏な境地にいられる。」
ところで明治の文明開化の象徴ともいえる鹿鳴館は、鹿は友同士仲良く呼び合って、一緒にごはんを食べるという、中国最古の詩集である『詩経』にある鹿の生態をうたった詩から名づけられたものです。
(写真:サルナート「ダメーク・ストゥーパ(左手前の二段円柱形)」と遺構)