日本・トルコ友好の歴史
1.1時間15分前
昭和60(1985)年3月18日、新聞各紙朝刊に「イラン上空 飛行すれば攻撃 イラクが民間機に警告」という旨の見出しが掲載されたことは、ご記憶の方が多いと思います。当時、イラン・イラク戦争中(1980-1988)で、イラク軍がイランの首都テヘランの空爆を開始したのです。さらに3月17日に至って、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は、「3月19日、午後8時半以降はイラン領空場を飛行する航空機を無差別に撃墜する」という声明を発しました。
翌日の19日の各紙朝刊には、「邦人に動揺広がる 脱出経路探しに必死」との旨が大書されていました。イランへは、日本企業が多くの社員を派遣していたのです。外国航空の特別便が一部運行されることになりましたが、自国民を優先するため、日本人は除外され、不安にかられる一行の姿を伝えました。外務省は救援機派遣を、日本航空に依頼しましたが「帰路の安全が保証されない。」として、日本航空はイラン乗り入れを断念したため、事態はさらに深刻度をましました。同日の夕刊には、テヘランに孤立した300人以上の、日本人の様子が続報されました。
しかし、翌20日の朝刊各紙には「テヘラン在留邦人 希望者ほぼ全員出国 トルコ航空で215人」の朗報が掲載されました。二機のトルコ航空機が日本人を救出し、成田空港へ向けて離陸をしたのです。それは、退去期限時刻の1時間15分前の離陸でした。危険を冒してまでの、トルコ政府の日本人救出の理由としてあげたのは、「エルトゥールル号の恩返し」という説明でした。日本では、エルトゥールル号以来の日本・トルコ友好の歴史はあまり知られていません。トルコ側の説明と対照的に、日本側からは、政府・マスコミを含めて、エルトゥールル号に触れて、日本・トルコ友好の歴史を言及したコメントを聞くことはありませんでした。
2.エルトゥールル号遭難事件
文久4・元治1(1864)年建造の木造フリゲート艦エルトゥールル号(全長76m)は、明治20(1887)年の日本の皇族小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応える目的で、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることになりました。明治22(1889)年7月、イスタンブールを出港、数々の困難に遭いながらも、航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて翌明治23(1890)年6月に日本に到着しました。
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明治23(1890)年9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県樫野崎灯台沖に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して爆発、沈没しました。灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台に事件を知らせ、灯台守の通報により大島村(当時)の村民が総出で救助と生存者の介抱に当たりました。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、島民は非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めました。この結果、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明となる大惨事ながら、69名が救出され生還することができました。
やがて事件は和歌山県を通じて日本政府に伝わり、心を痛めた明治天皇は政府として可能な限りの援助を行うよう指示をしました。こうして医師と看護師が和歌山県に派遣され、さらに生存者は日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により無事トルコへと送り届けられたのです。
オスマン帝国本国では、エルトゥールル号の遭難は、大きな衝撃を呼びました。天災による殉難と報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められました。また、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられたことは、トルコの人々に日本と日本人に対する好印象を決定づける事となりました。日本でも、エルトゥールル号遭難事件は、衝撃的ニュースとして伝えられ、政府を通じて多くの義援金・弔慰金がよせられました。
3.山田寅次郎
山田寅次郎(1866-1957 やまだとらじろう)も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりです。山田は沼田藩(上野国、現群馬県沼田市西倉内町に存在した藩)江戸家老の子で、四方庵山田宗偏(偏は彳に扁)を祖とする、七世山田家、山田宗寿の養子となり、将来宗偏流八世宗家となる身でした。山田は、民間で義援金を集めようと思い立ち、事件の二年後集まった義援金を自ら携えて、オスマン帝国の首都イスタンブールに渡りました。
一民間人、山田が義援金をもってやってきたことが知られるや、熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト?に拝謁する機会に恵まれ、この時の皇帝の要請で、オスマン帝国に留まることを決意しました。山田は、イスタンブールに貿易商店を開き、士官学校で少壮の士官に日本語を教え、日本政府高官のイスタンブール訪問に心を配り、国交が樹立されていない中で官民の交流に力を尽くしました。
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トルコの人々は、ヨーロッパまたは中東の中でも、特に親日的であると言われています。その起点には、エルトゥールル号遭難事件において、日本人の損得や駆け引きのない救助活動が上げられます。公的な場で、トルコ人が日本人に対しての友好の歴史を語るとき、第一に語られるのがエルトゥールル号遭難事件の事なのです。
4.友好の連鎖
平成11(1999)年、トルコで2回の大きな地震がありました。それは、8月17日のイズミット地震と同年11月12日のデュズジェ地震です。被害は深刻で現在も、一部の地域で、復旧作業が続けられています。両地震とも日本政府の対応は早く、地震翌日には人名救助隊や医療チームの派遣を行いました。さらに、緊急無償援助として、経験者によるライフライン復旧支援、トルコ政府の要請による阪神大震災の被災者が使用していた仮設住宅1900戸の提供など、可能な限りの援助を行いました。また、テヘランで救出された日本企業の人々は、その恩を忘れてはならないと、多くの人々から義援金を集めてトルコ政府に寄付をして喜ばれました。
平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコを訪問しました。訪問理由の一つは、イラン・イラク戦争時の、日本人救出のトルコ航空元機長に会い、お礼の言葉を述べることでした。機長の談話を、時事通信では「大変光栄です。日本人救出は自分の任務だった。」と紹介しています。鳥インフルエンザが流行しているにも関わらず、マスクなしの訪問もさぞ好意的に迎えられたでしょう。小泉首相は、現地メディアから、破格の待遇を受けたそうです。
142年前から続く両国の友好の歴史。その時その時の出来事や気持ち、とった行動が横糸となり、大きな時の流れの縦糸に交わりながら、両国の友好という布が織り上げられているのです。