筆録
 
2007年
 
3月31日(土) 玄 奘
2001年3月2日。「バーミヤン石窟、破壊!」。衝撃的なニュースが世界を揺るがせました!宗教上の理由で、アフガニスタンのあらゆる彫刻や、仏像などの破壊活動が開始されたのです!! あの西遊記の主人公、三蔵法師・玄奘も、インドへの求法の旅の途中、このバーミヤンに立ち寄り、まだ美しかった巨大石仏に祈りを捧げました。玄奘がこの悲劇を見たとしたら、一体、どんな言葉をつぶやくでしょうか…?
また日本では、現代日本を代表する洋画家、平山郁夫画伯が、実に40年をかけたライフワークを完成させました。その半生の結晶として描き上げた、「大唐西域壁画」。壮大なスケールのこの壁画には、三蔵法師・玄奘の苦難の旅が刻みつけられているのです。
三蔵法師 玄奘。彼は、戦乱の中で苦しむ庶民たちを救うべく、正しい仏教の教えを求めて、インドに経典を取りに行く求法の旅に出ます。中国長安を出発し、シルクロードの拠点、トルファン、クチャ、タシュケント、バーミヤン、そしてガンダーラ…。命を削るようにして、シルクロードと呼ばれた悠久の道を自らの足で一歩一歩踏みしめ、16年の歳月をかけ、旅を成し遂げた玄奘三蔵。その旅路に待ち受けていたのは、物語「西遊記」を越えるドラマ、そして苦難でした。一体、彼を突き動かしていた想いとは何だったのでしょう…。玄奘が命を賭けて私たちに伝え、残そうとしたものとは…。
玄奘は中国にない真実の教えを書いた仏典を、インドにもとめ、当時、国法で禁じられていた出国を決意します。長安を出発したのは、629年、28才の時でした。旅中は何度も命の危険にさらされ、やっと仏教の聖地にインドへの入り口、バーミヤンの巨大石仏に辿りつきます。長安出発から3年…。ガンダーラの巨大伽藍を前に跪き、涙を流す玄奘。この時、30才でした。ついにインドに到達した玄奘。しかし、玄奘はあまりの衝撃に呆然とします。時の流れの中で釈尊の教えが歪められ、外道と呼ばれる教えが横行していたのです。釈尊が悟りを開いたとされる菩提樹のもとを訪れた玄奘は、砂に埋もれ放置された仏陀の像を見つけ、烈しく泣き崩れました。だがその時、玄奘は、運命の人と対面することになります。百才を越えようとする老僧、正法蔵。正法蔵の元で、玄奘は、当時の仏教大学の最高学府ナーランダで、仏典の研究に打ち込みます。そして彼は、一つの答えにたどり着きました。それは、当時インドで最先端の仏教として研究が続けられ、深められていた、心の仏教「唯識論(ゆいしきろん)」でした。玄奘が長安を出発して16年。帰国の途を辿り直した彼は、ついに、都に入る城門の前に立ちました。
持ち帰った仏像は八体。仏典は657部にも及びました。経典を持ち帰った今、なすべき事は経典の翻訳。訳した経典は、実に1300巻以上。「般若心経」の元となった「大般若経」にも心血を注ぎ込みました。「大般若経」を訳し終わった時、玄奘は60の齢を過ぎていました。玄奘はある時、弟子の一人につぶやきました。
「今や般若経の翻訳も終え、我が生涯もまた尽きた。教化の場を他界に遷した後は、草の筵に包んで葬送して欲しい…。」
満足げに筆を置いた玄奘は、使命を果たし終えた満足感に笑みをこぼしながら、静かに世を去りました。その後、「般若心経」、そして心の仏教「唯識論(ゆいしきろん)」は、仏教の神髄として、日本に伝えられました。三蔵法師・玄奘の思いが詰まった「般若心経」は、国と世紀を越え、人々の心に息づいていくこととなるのです。
 
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