筆録
 
2009年
 
5月28日(木)

三蔵法師紀行
玄奘 帰国を決意!  

玄奘が帰国を決意したとき、ナーランダでの滞在はすでに8年を過ぎようとしていました。玄奘が長安を出発して16年。帰国の途を辿り直した彼は、ついに、都に入る城門の前に立ちました。
 
ナーランダから持ち帰った仏像は八体。仏典は657部にも及びました。だが、これで玄奘の戦いは終わったわけではありませんでした。旅はあくまで手段。経典を持ち帰った今、なすべき事は経典の翻訳することでした。訳した経典は、実に1300巻以上にもなります。「大般若経」、「般若心経」の元となった大冊にも心血を注ぎ込み翻訳に没頭しました。「大般若経六百巻」の全て訳し終わった時、玄奘はすでに、60の齢を過ぎていました。玄奘はある時、弟子の一人にこうつぶやいたとつたえられています。
 
「今や般若経の翻訳も終え、我が生涯もまた尽きた。無常の後は、草の筵に包んで葬送して欲しい…。」
 
満足げに筆を置いた玄奘は、使命を果たし終えた満足感に笑みをこぼしながら、静かに世を去っていきました……。その後、「般若心経」、そして心の仏教「唯識論」は、仏教の神髄として、日本に渡ります。
 
そして三蔵法師 玄奘の思いが詰まった「般若心経」は、世紀を越え、人々の心に息づき現在にまで伝えられていくことになるのです。

◆◆◆◆◆

なお、玄奘三蔵の霊骨は現在、埼玉県(旧岩槻市)にある天台宗慈恩寺に、その霊骨は分骨され安置されています。玄奘三蔵の霊骨は、宋の時代に長安(現西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱によりその行方は不明になっていました。

時は移り日中戦争のさなか、1942年(昭和年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、偶然、玄奘三蔵の霊骨を旧日本軍が発見しました。それは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨(せっかく/石で造った棺を入れるための箱)で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていました。石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖年)と明の1386年(洪武年)の葬誌が彫られていました。石棺内に納められていたのは、霊骨のほか多数の副葬品も見つかりました。

この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見ました。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置されました。その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれています。この時、日本で奉安されたのが、現さいたま市の慈恩寺です。(写真はさいたま市慈恩寺「玄奘塔」で、玄奘三蔵の霊骨が安置されています。)




 
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