筆録
 
2013年
 

観音様を信じて

藤原道長が御堂関白と呼ばれるのは、京都に法成寺を造営した為ですが、1027年、彼はその法成寺阿弥陀堂で臨終を迎えます。法成寺には阿弥陀堂に相対する位置に薬師堂が置かれ、薬師像の他に六体の観音像が並んでいました。道長は4年前の1023年十二月二十三日、盛大な六観音造像供養を行っています。

平安時代も半ばを過ぎると末法思想が広まりました。お釈迦様が亡くなられてから2000年たつと末法の世になり、1052年がその初年に当たるというものです。道長の子・頼通が宇治の別荘を寺にして平等院としたのは、まさにこの年でした。こうした時代背景から、奈良時代以来続いてきた現世利益を願う信仰に加えて、人々は来世救済をも願うようになりました。

六観音は六道輪廻の苦を除くと信じられ、中国でも10世紀初めの壁画に六悪道が頻繁に描かれています。また、説話集にも六観音を描いて亡き親が悪趣に落ちずに浄土に生じるよう祈願するという話が載っており、中国でも日本でも、六道思想の広まりとともに、民間信仰や習俗と結びついた六観音信仰が深まっていきました。

栄華を極めて生涯を終えた道真とは対照的に、失意の中で亡くなったのが菅原道真です。道真は熱心に観音を信仰していました。それは彼がまだ幼い時に重い病で死にそうになったのを、父と母が観音像を造って祈願したところ病が治ったと聞かされて育ったためでした。類稀な才能で出世を果たした道真でしたが、巷間知られるように、五十七歳の時、藤原氏の策謀により太宰府に左遷されてしまいます。これにより一族は四散、道真の子は窮乏の中で亡くなりました。赦免の日をひたすら待つ道真でしたが、その日は訪れぬまま903年2月、59歳で没します。その前月、道真は次のような詩を作りました。


病は衰老を追いて到る
愁いは謫居(たつきょ)を
趁(もと)めて来る
この賊逃るるに処なし
観音念ずること一廻


対照的な人生を送った二人が、観音信仰の中に生を終えたのは、何とも言い難いものがあります。

 
ページトップへ
 
 
<前頁        次頁>