仏教の受け入れを巡っては、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏とが激しく対立し、天皇もはっきりした態度を表明しませんでした。結局伝来した仏像は蘇我氏の首領の稲目(いなめ)の私邸にまつられることになりました。しかし間もなく疫病が猛威を奮ったため、物部氏はこれを外来の神(仏像)まつった祟りと決めつけ、稲目の私邸を焼き討ちし仏像を投げ捨ててしまったそうです。その後も百済などの朝鮮半島から、数回にわたり仏像が伝えられ、蘇我氏がもらい受けてまつりましたが、なぜか仏像をまつった後に疫病が必ず流行し、その度に物部氏が蘇我氏私邸を攻め、仏像を遺棄したり破壊したりしました。これらは「記紀(きぎ/古事記・日本書紀)」その詳細が述べられています。従って、仏教伝来当初の仏像は、最初に伝えられた釈迦如来の金銅仏をはじめ、我が国にはひとつも残っていません。
金銅とは、銅または青銅にメッキを施したもので、その技法は古く、中国では4世紀頃から行われていたようです。現在の我々は、仏像にまばゆい輝きよりも、落ち着きを求めますが、タイやミャンマーなどの東南アジアの寺院は金色色に輝いています。今日我々が見る枯淡な感じの仏像も、制作当時は金箔が貼られたり彩色されていたものが多いと考えられています。
日本国内で最初に造られた仏像は、飛鳥寺の飛鳥大仏と呼ばれ親しまれている釈迦如来像です。日本で初の仏師として知られる止利仏師(とりぶっし 鞍作止利/くらつくりのとり 7世紀)の作と伝えられています。飛鳥寺は崇峻天皇元年(588)に聖徳太子が建立したと伝えられる、我が国最初の本格的寺院で、もとは法興寺(ほうこうじ)といいました。創建当初は七堂伽藍(寺院の主要な七つの建物をさす。七堂は宗派により異なる。)を備えた大寺院であったことが、近年の遺構発掘調査で明らかになっています。

さて、歴史上、仏教に帰依した人物として、まず最初に上げられるのが聖徳太子です。国宝の法隆寺・釈迦三尊像は、太子の母上様がお亡くなりになったのに伴い造立が企画されました。しかし、太子とその姫も相次いで病に倒れ黄泉に旅立ったため、追善の仏像となりました。また、太子の御影(みかげ)と伝えられるのが、法隆寺の「夢殿観音菩薩像(救世観音)です。この観音像は、アルカイックスマイル(archaic smile)と称せられる不思議な笑みで知られますが、余分な力を抜いた自然な立ち姿が実に美しい仏像です。これは木像仏で、材は楠が使われています。楠は、仏教伝来以前から神木として扱われ、加えて彫刻しやすい材質であることから用いられたと思われます。金銅は光り輝く威厳をもち火災に強い反面、材料が高価で制作に技術も手間もかかることから、木像の広まりと共に少なくなっていきました。
なお、アルカイックスマイル(archaic smile)とは、古式の微笑と称せられ芸術的技法の一つです。古代ギリシアのアルカイック期(BC7c〜同6c)の彫像に顕著な表情です。唇の両端をやや上げて微笑の趣をあらわしているのでこう呼ばれていますが、これは彫像に生き生きとした感情を与えようとする特徴の一つで、必ずしも全てが微笑の感情を表現しているとは限りません。このような微笑は、西アジアやエトルリアの彫像や中国の北魏や日本の飛鳥時代の仏像にも観ることができます。