筆録
 
2010年
 
… 四天王 …

聖なる須弥山(しゅみせん Sumeru)は、古代インドの世界観で、世界の中心にそびえるという高山である。その中腹には帝釈天の眷属(大きな神格に付属する小神格)である四天王が守護していると言われています。すなわち持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)です。四天王といえば憤怒の表情をした動きの激しい像を思い浮かべますが、我が国最古の法隆寺金堂 四天王の表情は、目をつり上げて目を大きく見開いているだけで、物静かといっていい風情です。

インドでは古くから方位を守護する神がいると考えられましたが、その姿は武人ではなく貴人の姿で表されていました。それが中央アジアを経て中国に入り、そこで次第に武人として造型がなされていきましたが、それでも奈良時代位までは法隆寺金堂の四天王のような誇張の少ないものでした。しかし、それ以降は動作も表情もダイナミックがものが造立されるようになっていきました。

また、四天王の鎧の帯や袖口に獅子が噛みついている絵柄がありますが、これはガンダーラにおいて、ギリシアのヘラクレスがライオンの毛皮をまとっていることが取り入れられたためです。ガンダーラはその地理的要因により、さまざまな外国文化が伝播したため、異文化がそれぞれに融合しました。

方位を守護する神がいるという考えは仏教にも取り入れられ受け継がれました。ガンジス河の流域の有名な遺跡であるバールフト(Bharhut 1873年、インド考古調査局初代総裁A・カニンガムによって発見された古代仏教遺跡。)では、仏塔の周りの石柱に四天王が配されていました(現在:インド博物館に展示)。これは我が国の、東大寺・戒壇院等の四天王配置の原型とされています。

さて、七福神の一人としての毘沙門天は、開運厄除を担っており、四天王の中でも最もなじみの深い存在です。四天王の中で、とりわけ毘沙門天が信仰の対象となっていったのは何故なのでしょう。確かなことは分かっていませんが、「毘沙門天の誕生
(田辺勝美著 吉川弘文館)」には四天王の図中に、一人だけ異なった様子の天皇がいる図があることを指摘しています。それは、ガンダーラに住むイラン系の民族神で、その神は富貴の神であり、これが毘沙門天でシルクロード東西交流の中で生まれたとしています。

何故、毘沙門天が七福神の一人となったのか、この辺りにヒントがあるようですね。(写真:東大寺金堂多聞天像)
 
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