観音霊場の成り立ち
観音霊場巡りはいつ頃から始まったのでしょうか。「今昔物語」には参詣を勧める説話が載っています。また「聖の住まいは何処ぞ、箕面よ勝尾よ播磨なる、書写の山、出雲の鰐淵や、日の御崎、南は熊野の那智とかや」という聖が集い住んだ有名な観音霊場を詠みこんだ歌謡が「梁塵秘抄」にありますが、無名な山寺や岩窟にも、教団を離れた聖たちが修行していました。「春の焼野に菜を摘めば、窟に聖こそおわすなれ」という歌謡はそうした様子を歌ったものです。こうした聖たちの布教活動により、観音霊場巡りは盛んになっていきました。
1094年、長谷寺が焼失しますが、観音の霊験を宣伝する聖たちの勧進によってたちまち再建が成りました。聖たちの影響力の大きさがわかります。
以降、観音霊場はさらに発展していきました。現在も盛んな西国三十三所巡りの創始者は覚忠とされますが、覚忠が、いの一番に巡礼を始めたというわけではないでしょう。けれども、鎌倉期の「寺門高僧記」の覚忠伝には、1161年に那智山から75日間かけて、御室寺までの三十三所を巡ったことが記されています。また「千載集」には、「三十三所観音拝みたてまつらんとて、所どころにまいり侍ける時、美濃の谷汲にて油の出づるを見てよみ侍ける」という詞書に続いて「世を照らす 仏のしるしのありければ まだともし火も消えぬなりけり」という和歌が収められており、覚忠が三十三
所を巡ったことは史実と認められています。一方板東三十三所の成立には、鎌倉幕府の観音信仰に依るところが大きく、幕府の成立を描いた「吾妻鏡」によれば、頼朝は乳母が清水寺に参籠して得た観音像をもとどりの中に入れていたといいます。その霊験で、石橋山の戦いに敗れて房州須崎に逃れる際、観音様が船頭となって導いたと伝えられ、この話は江戸時代の「観音霊験記」にも絵図入りで載っています。
建久6年、頼朝は上洛して妻政子、娘大姫を伴い京都の観音霊場を巡っています。三代将軍実朝も、将軍職に就いた翌年、夢のお告げに従って岩殿観音堂に多数の御家人を伴って参詣しており、一族の観音信仰の厚さが偲ばれます。