筆録
 
2009年
 
鑑真和上と檀像


鑑真和上が幾たびもの困難を乗り越えて来朝したのは754年のことでした。当初は東大寺に清居しておられましたが、独立した道場を持ちたいと思い、西の京(にしのみやこ)にあった、天武天皇の皇子である新田部親王の旧宅を譲り受けて、講堂としてそこで講義を行いました。その講堂が779年に唐招提寺となったと伝にあります。鑑真和上の御遷化は763年ですから、お亡くなりになって10年以上を経て建立されたことになります。

この唐招提寺の新宝蔵には、薬師如来・衆宝王菩薩(しゅうほうおうぼさつ)・獅子吼菩薩(ししくぼさつ)の三体の木彫像がありますが、この三体は一本の檜から像立したもので、従来の工法とは事情を異にしています。こうした木像は、唐招提寺に多く残っていることや、作風は着衣に質感を持たせたり、細かい部分的な細工を施したり、強く唐風の表現法の特徴が観られることから、鑑真和上の来朝を機に、木像の技法が広まったと考えられています。

その理由としては、和上随行者の中に、檀像を彫る技術者がいたことが挙げられます。檀像というのは、白檀を用いた木像をさしますが、白檀はインドで尊ばれる木であり、従って白檀はとりわけ尊重されました。中国には白檀は自生しないため、桜等の材が用いられましたが、白檀像同様尊重され、他の工法よりも檀像を重んじる風が生まれました。我が国では最初はカヤが多く用いられやがて檜も用いられるようになりました。彫りを重視して彩色は施しません。木像といってもその技法は色々ですが、主流となったのは寄木造りと呼ばれるものです。像の形に合うように木を組み合わせてい彫っていくのですが、大木を用意する必要がないのが便利で、やがてこれが主流となっていきました。

さて、唐招提寺といえば鑑真和上像です。威厳の中にも温かみのある高僧の表情を余すところなく伝えるこの像は、和上がお亡くなりになる前年の762年に像立されたもので、御遷化後は住坊跡に安置されました。唐招提寺は長年月をかけ建立されたため、かなり広範囲の時代にわたる仏像が納められており、平安時代にさしかかる頃に造られた仏像も納められています。
 
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