8月25日
日本仏教の源流をたどる「慈覚大師円仁とその名宝」展
最澄、空海の陰に隠れた存在ながら、後世への影響は引けを取らない――。そんな存在だった、平安時代の天台僧・円仁の生涯と教えをたどる「慈覚大師円仁とその名宝」展が開かれています。平安・鎌倉期の仏教美術を中心に仏像や経典など国宝と重要文化財だけでも約100点。日本仏教の源流を目にすることが出来ます。
◆ 「法然上人絵伝」は京都・知恩院所蔵の国宝。浄土宗の開祖の絵巻がなぜ、と思う方おられるでしょうが、実は臨終の場面で、法然は敬慕する円仁の衣をまとっていたとつたえられています。円仁は日本における念仏の始祖でもあります。師・最澄が天台宗を開いた2年後の808年、15歳の円仁は比叡山を目指し郷里の栃木を旅立ちました。それから1200年を迎えるのを記念した企画で、宇都宮市の栃木県立博物館で6月3までの開催を始めとし、6月16日から宮城県多賀城市・東北歴史博物館、そして、8月11日から大津市・滋賀県立近代美術館へと巡廻されました。
◆ 天台宗は法華経を中心としていましたが、空海が中国から密教をもたらすと、苦境に立たされます。延暦寺から出品された国宝「天台法華宗年分縁起」は最澄が記した寺の動向で、比叡山を下りた弟子の多いことを示しています。
国宝の「入唐求法巡礼行記」も展示されています。遣唐使として中国を旅した、在唐9年間の紀行を日記全4巻にまとめたもので、帰国後、当時の中国の有り様を克明に伝えたものです。英訳したライシャワー博士は玄奘三蔵、マルコ・ポーロと並ぶ「世界の三大旅行記」と評しています。(円仁唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究 著:エドウィン・O・ライシャワー 訳:田村完誓 講談社)
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旅立つ円仁はすでに45歳。教義上の疑問を解消する役割を担っていました。真言密教に対抗し、天台宗も密教を取り入れたが、そのために無理が生じていました。承和5年(838年)遣唐船で唐に渡り、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行し、承和14年(847年)に帰国しました。長安滞在中、唐の十五代皇帝武宗の仏教排斥にあい、苦渋を強いられ、中国の旅が苦難の連続だったことも展示はよく伝えています。
そのなかで念仏とも巡り合いました。持ち帰った経典の半分以上は密教書でした。このことから、法華経、念仏、密教を統合し比叡山が日本仏教界の母山へと発展する原点に円仁がいることがわかり、その功績は大なるものがあります。
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円仁は信仰の対象でもある。ゆかりのお寺は全国に約700。下北の恐山、平泉の中尊寺、山形の立石寺、松島の瑞巌寺などが知られ「東北のお大師さん」とも呼ばれています。これは、慈覚大師が天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、この折に、天台の教学を広く伝播させたことが大きな基盤となっています。ゆかりのお寺に伝わる肖像も多数出品され、いずれも温和な表情が印象に残りました。弘法大師とは違う、もう一つの大師信仰が庶民の間に根付いていたことを物語っています。
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なお、円仁は、延暦13年(794年) 野国都賀郡(栃木県下都賀郡)豪族・壬生氏に生まれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となりました。貞観6年(864年)71歳で遷化。その2年後の貞観8年(866)、生前の業績を称えられ、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の諡号(しごう)が授けられました。

円仁が円福禅寺(後に伊達政宗の菩提寺となる瑞巌寺の前身)を開いた際、「大聖不動明王」を中央に、「東方降三世」、「西方大威徳」、「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれています。
五大堂へ渡る朱塗りの橋は床板が交互に抜けており、透かし状になっていることから『すかし橋』と呼ばれています。これは、参詣の際、心身が乱れぬよう、気を引き締めるための配慮といわれています。