筆録
 
2008年
 

8.26(火)
三蔵法師紀行

カピシー国

玄奘は再び雪の中を、シバル峠(Shibar3260m)越えに挑みました。この時危うく道に迷うところだったのですが、幸い人に出会ってどうにか峠を越えることができました。そしてゴルバンド川を下ると、明るい高原に出ることができました。このあたりがカピシー国で、城ではアーリア系の王が周囲の国を統治していました。
寺院も百以上あり、仏教を信仰していました。玄奘は城の東にあるシャーカラ寺という寺院に泊まりましたが、それには理由がありました。
昔、漢の王子が連れてこられ、この寺院を建てたと聞いていたからです。実際は漢ではなく、黄河流域付近の国々の人質であったことが、近年明らかになりました。
カピシー一帯は、かつてカニシカ王が統治しており、遠くパミール高原まで勢力を伸ばしていました。これを恐れた国が人質を送ってきたのです。
カニシカ王は仏教を尊んだ王で、当時使われていた貨幣が出土した物を見ると、表には乗馬服をまとい髭をたくわえたカニシカ王の肖像、裏にはギリシャ語でBODDO(ブッダの意)と書かれた仏さまが描かれています。
このような王様でしたから、人質を粗略に扱うわけはなく、礼節を尽くして対し、季節ごとに住みやすい場所に居を移し住まわせたのでした。夏の離宮はこのカピシーで、玄奘が泊まったシャーカラ寺はその住まいだったのです。
玄奘が訪れた際の王も仏教に熱心で、夏季の逗留を促し、経論の講義を受けました。また人質の王子が埋めたという宝を、発掘祈願を修めて災いの及ぶことなく掘り起こし、人々それを寺院の修復に充てることができたということも記録に残されています。
現在カピシー城は残っていませんが、1936年にフランスの考古学者が、カピシー城跡と見られる場所を発見し、彩色ガラスの杯や象牙の彫刻、中国の漆器などの宝物を発掘したのでした。



カニシカ王(クシャン第二王朝の開祖)

中央アジアからインド中部に及ぶクシャン最盛期を作り上げた。首都はガンダーラのプルシャプーラ(今日のペシャワー ル)、冬の離宮はマトゥラー、夏の離宮はカピシー。この王の即位を元年とするカニシカ紀元が、以後約100年間用いられた。 カピシーはアフガニスタン首都カブール北、現在のベグラムをさす。古代都市ベグラムは、第一級の文化財が多数出土した場所。現在、草深い一帯には旧ソ連占領時代の地雷が散らばり、近くの航空基地から飛び立つ米軍の戦闘機が頭上で轟音を響かせている。だが2000年前、ここはインド北部まで勢力を伸ばしていた強大なクシャン朝の華やかな夏の都で、商人によって象牙や美術品がアジア全土から集められていた。なお、写真は、当時使われていた貨幣でギリシャ語で書かれた「BODDO(ブッダ)」の文字が伺える。


 
ページトップへ
 
 
<前頁        次頁>