心の拠り所
江戸時代には全国で160か所以上の観音霊場があったといいますが、そのほとんどが八代将軍吉宗の頃までに成立しています。観音霊場がこれほどの数にのぼった理由のひとつは、他領に出ることを懸念する領主が、領内に三十三観音を設けたことによります。そうした霊場は有名な観音霊場に行けない人を吸収して、観音信仰はますます盛んになっていきました。
この時代、特に盛んだったのが秩父霊場です。秩父霊場には年間八万人の人が参詣したといいますが、秩父の地は風光明媚で、しかも狭い地域に寺院が集中しているので、たやすく巡ることができるので人気を博したのでした。観音霊場巡りは勿論信仰に基づいてのことではありましたが、一種のレジャーでもありました。治安の安定していたこの時期は関東から西国へ巡礼に出る人も多く、途中で芝居見物なども楽しんだということです。また今でいうガイドマップのようなものも刊行され、巡礼に必要な装束、墨書すべき文言、各霊場の縁起、行程の絵図などが掲載されていました。
室町の頃から始まった巡礼歌ですが、詠題を先唱した後、鈴や鉦を鳴らしつつ唱和する形式が確立したのは江戸時代です。けれども天明の飢饉のような社会不安が起きると、当然のことですが参拝者は減りました。さて秘仏を安置している厨子を開けて参拝させるのを居開帳といい、寺から出して他所で開帳するのを出開帳といいます。秩父三十四観音をはじめとして、観音の開帳回数は他の尊像を大きく引き離しています。観音様は現当二世の利益をもたらして下さるということで、江戸庶民の心をとらえ、民話に材をとった観音像も作られました。
明治以降、観音霊場の巡礼者は激減しましたが、今また時折伝統的な装束に身を包んだ巡礼者の姿をテレビカメラが映し出します。
定まった信仰を持たないといわれる日本人ですが、神仏への畏敬の念によるよりも、親しみを感ずることで信仰心を深める傾向をもつ私たちにとって、観音様はこれからも心の拠り所として親しみ敬われていくに相違ありません。
(写真:秩父霊場発祥の地)