筆録
 
2009年
 
…和洋の完成…

平安時代後期は藤原氏の栄華が盤石となった時代です。仏教はますます国の儀礼と結びつきを強め、国土安穏・五穀豊穣を祈る行事が大規模に行われました。また「源氏物語」にもあるように、安産祈願や病気平癒などを神仏に祈願するといったことも盛んに行われました。一方で、末法の世がまもなく訪れるとの恐れが広がり、大規模な造仏がなされますが、これは藤原氏に富が集中していたことを示すものでもあります。さらには、貴族の美意識から、彩色を施したり、金箔などを貼ったりした華麗な仏像がこの時代には多く造られました。また百体千体の仏像を造るという、数量主義とでもいうべき造仏がなされた時期でもありました。

貴族の世の中では、仏師の立場も変化してきます。奈良時代には東大寺や東寺といった大きな寺に所属して活動していた仏師達は、それぞれの寺院から独立して工房を構え、芸術家として活動を始めるようになりました。つまり、寺院に納める仏像を制作するほかに、貴族個人から依頼された制作も請け負うことになり、充分芸術家としてやっていけるようになったのです。

定朝(じょうちょう)は定朝様(じょうちょうよう)といわれる、誇張のない表現と穏やかな表情の仏像で一世を風靡した仏師ですが、彼は仏師として初めて僧網位(そうごうい)を得ました。僧網位とは僧尼を統括する官位で、定朝の造仏に対する功績の偉大さを示すと共に、仏師という社会的地位が、高い評価を得たことを示すものです。

定朝は、和洋の完成者として知られます。和洋とは、顔は丸みをおび、鼻が低く、唇は小さいという大陸にはない日本独自の様式のことをいいます。写真(右)の「平等院鳳凰堂 阿弥陀如来坐像(国宝)」は、定朝晩年(1053)の傑作です。定朝が手がけた仏像の中で、自身の造立として確証のある唯一の遺作でもあります。像高は278.8cm・髪際高242.1cmの木像、寄木造で漆箔が施されています。お顔は円満、身体各部の釣合がよくとれ、安定感があり流れる様な衣文線の美しさにも優美で親しみのある雰囲気がよくあらわされています。

また、ご存じの方も多いと思いますが、「寄木造(よせぎづくり)」と「割矧造(わりはぎづくり)」は定朝が完成させた技術です。寄木造はその名の通り二本以上の材木を組み合わせる方法で、これにより分業が可能になりました。また、割矧造は一本の材木を二分割して用いる方法ですが、共に中国にはない技法であり、良質の檜が得られる日本ならではのものです。
 
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