聖徳太子と観音信仰
日本に観音信仰がいつ伝来したのかは、文献に残っていないので明らかではありません。ただ4世紀頃に造られた古墳から出土した中国製の鏡には、蓮枝を持つ観音らしい菩薩が描かれています。
中国で観音の功徳を説いた「法華経」が漢訳されたのは3世紀後半ですが、4世紀になって観音像の制作が始まりました。中国の「宗史」に、聖徳太子が遣隋使を送ってきて「法華経」を求めたという記述があります。「日本書紀」には、推古14年(606年)に、太子が「法華経」を読んだと記されていますので、「法華経」の伝来とほぼ時を同じくして日本でも観音信仰が広まったと思われます。
このような経緯から、聖徳太子と観音は強く結びついているのです。太子を観音の化身として崇敬する伝承があったり、太子を懐胎した母の夢の中に金色の僧が現れ、「我は救世の菩薩なり。しばらく后が腹に宿らん。」と告げたという伝説が伝えられたりしました。法隆寺は、聖徳太子が父用命天皇の病平癒のために607年に創建した寺ですが、夢殿の秘仏・救世観音は、「天平十九年法隆寺東院資材帳」によれば「太子等身観世音菩薩像」だとあります。
救世観音が世に知られるようになったのは、東京大学で哲学を教えていたアメリカ人教師フェノロサが、岡倉天心と共に、明治17年関西地方の古寺社を調査した際に見いだされたことによります。
それまでは開扉すると祟りがあるとして人の目に触れることはありませんでした。
救世観音の特徴はまず2メートル近い長身であるということです。また正面重視の造形で、杏仁形の目とたくましい鼻梁を備えた止利形式といわれる観音様です。止利とは止利仏師のことですが、彼は中国・南梁からの渡来人の孫ともいわれる人物です。聖徳太子、蘇我氏に用いられ、606年には飛鳥寺の釈迦如来像を制作しました。 作風は、中国・北魏の様式を採り入れつつ、そこに日本的なものを加味した独特のもので、大きく張った目、両端がつり上がるアルカイック・スマイル(古代微笑)と称される笑み、堅く直線的な衣のひだを持つ威厳に満ちたものです。