
近代の彫刻家の中で、想像力の源を仏像に求めた人は多く、彼等は伝統的な様式を学びながらも、それにとらわれずに、個性的な造象を試み、然も仏性を表現しようと努めました。その多くは高村光雲の門下生で、光雲は周知の通り、「智恵子抄」で有名な詩人であり彫刻家である高村光太郎の父です。高村光雲は江戸に生まれ、仏師高村東雲に弟子入りしてやがて高村家の養子となり、衰退していた木彫りの世界に新しい風を吹き込みました。その光雲の教えを受けた彫刻家達が活動したのはちょうど第二次世界大戦中でした。何れの時代もそうであったように、文化や芸術は時代の流れや要求と無関係ではありえません。山本豊市は彫刻に用いる金属類の不足から、乾漆造りの技法を取り入れました。これは古代から中国で盛んに行われ、奈良時代になって我が国でも行われるようになったもので、土で造形したあと漆で固めて、後で土を取り出して内部を空洞にする技法で金属を用いません。また、作品にも時代が色濃く投影されます。関野聖雲作の「毘沙門天像」(東京芸術大学資料館蔵)は、昭和19年の作品で、彼はもともと仏教色の濃い作品を手がける彫刻家でありましたが、勇ましい姿の毘沙門天というところに戦時下という時代色が反映されています。女性像などは軟弱とみなされ、関係官庁が許さなかった時代でした。

我々の祖先はそれぞれが生きた時代にあって、仏像にさまざまな祈りを込めてきました。また、仏像を造る人たちもその祈りに応えるために、心技を切磋琢磨してきたのです。仏像が他の美術品と一線を画す理由はまさにそこにあるといえましょう。