筆録
 
2009年
 
…祈る心と仏像…

アメリカ大統領オバマ氏は先般の初来日のとき、幼少時に母親アンさんと来日し、鎌倉を訪れたことを紹介。「平和の象徴である大仏を見上げたが、子どもだったので抹茶アイスにより関心があった。」と話し聴衆の笑いを誘いました。又、前日の鳩山由紀夫首相との夕食でもアイスクリームがでて、抹茶アイスの話題になったそうです。先月は、慶派について述べ鎌倉の仏像にふれましたが、今回は近代の人々を取り上げてみたいと思います。

近代の彫刻家の中で、想像力の源を仏像に求めた人は多く、彼等は伝統的な様式を学びながらも、それにとらわれずに、個性的な造象を試み、然も仏性を表現しようと努めました。その多くは高村光雲の門下生で、光雲は周知の通り、「智恵子抄」で有名な詩人であり彫刻家である高村光太郎の父です。高村光雲は江戸に生まれ、仏師高村東雲に弟子入りしてやがて高村家の養子となり、衰退していた木彫りの世界に新しい風を吹き込みました。その光雲の教えを受けた彫刻家達が活動したのはちょうど第二次世界大戦中でした。何れの時代もそうであったように、文化や芸術は時代の流れや要求と無関係ではありえません。山本豊市は彫刻に用いる金属類の不足から、乾漆造りの技法を取り入れました。これは古代から中国で盛んに行われ、奈良時代になって我が国でも行われるようになったもので、土で造形したあと漆で固めて、後で土を取り出して内部を空洞にする技法で金属を用いません。また、作品にも時代が色濃く投影されます。関野聖雲作の「毘沙門天像」(東京芸術大学資料館蔵)は、昭和19年の作品で、彼はもともと仏教色の濃い作品を手がける彫刻家でありましたが、勇ましい姿の毘沙門天というところに戦時下という時代色が反映されています。女性像などは軟弱とみなされ、関係官庁が許さなかった時代でした。

さて、国宝の法隆寺釈迦三尊像が、聖徳太子とその妃、及びその母の追善の仏像であったように、像造は人々が切なる願いを持ったときになされるものでしょう。第二次世界大戦では多くの人々亡くなりました。中でも広島・長崎では原子爆弾が世界で初めて投下され、多くの犠牲者をだしその苦しみは今日に到ってもまだ続いています。長崎市は、昭和25年慰霊の像の制作を、長崎生まれの彫刻家・北村西望氏に依頼しました。平和公園に造られた「平和祈念像」は、作者も認める仏像風の坐法で、7万数千人の原爆犠牲者を慰霊し、平和を希求しています。今年の4月、アメリカ大統領オバマ氏は原爆を使った唯一の国の大統領として道義的責任に言及しながら核廃絶を訴えたプラハ宣言から半年。広島・長崎の願いの歯車は大きく動きつつあります。

我々の祖先はそれぞれが生きた時代にあって、仏像にさまざまな祈りを込めてきました。また、仏像を造る人たちもその祈りに応えるために、心技を切磋琢磨してきたのです。仏像が他の美術品と一線を画す理由はまさにそこにあるといえましょう。


 
ページトップへ
 
 
<前頁        次頁>