筆録
 
2013年
 

未だかつて見ず

和辻哲郎は「古寺巡礼」で、奈良国立博物館には推古から天平時代の観音像が多いことに驚いたと述べています。この時代は聖徳太子が摂政となって仏教の流布に努め、そのおよそ百年後には平城京遷都、次いで聖武天皇の国分寺建立と盧舎那大仏造立の詔が出されます。本来日本人は、視覚に訴える立派な建物や像を造って信仰心を育むのではなく、厳粛な場を設け、そこで魂と魂の触れ合いを感じ取ることにより霊的な存在を信ずるというのが習わしでした。百済の聖明王が欽明天皇に仏像を献納した時、天皇はそれを一目見るなり、「その御顔きらきらし、未だかつて見ず。」と仰せになったと「日本書紀」は記していますが、天皇は、まずなによりもその造形美に心惹かれたのです。つまり今まで見たこともないものだったということです。

ところで日本最古の寺である飛鳥寺本尊・釈迦如来像は、杏型の目を持ち、なんともいえぬ不思議な微笑みを湛えています。これは、ガンダーラから中国の雲崗、さらに朝鮮を経て入った百済仏系統の特徴です。この、今まで見たこともない大陸的な様子の仏像に、当時の日本人は強く惹きつけられたと思われます。この時代の観音信仰はどのようなものだったのでしょうか。

東大寺を中心に各地に国分寺が置かれたのは天平年間(729〜749)です。聖武天皇は740年に国ごとに七尺の観音像を造らせて、観音経を書写させたと「続日本紀」に載っていますが、この時代、観音は鎮護国家の利益をもたらす仏様でした。それで国家的な祈願がなされる際には「観音経」が読誦されたのです。こうしたことは、今日の私たちの感覚からすれば少し違和感があります。衆生が一心に観音菩薩の名を称えるならばどんな苦難からも救われる、観音菩薩はあらゆる姿をとって衆生を済度して下さるということと、国家安泰を願うこととは直接結びつきにくい気がします。これは当時の中国の観音信仰が影響しているのです。後漢の滅亡後、史上初めて異民族として中国を支配した北魏は、元来の遊牧民の習俗を捨てて仏教を採り入れ、統治の礎としました。こうしたことが日本の為政者にも取り入れられたのです。

 
ページトップへ
 
 
<前頁        次頁>