本年11月上旬、曹洞宗梅花流巡廻講習のため、静岡県御前崎を訪れた折、中日新聞朝刊のコラム「中日春秋」に杉原千畝(すぎはら ちうね)氏のことについて掲載されていました。年の瀬にあたり、ここにその全文を掲載し、犠牲となった多くの命への鎮魂と、自身への戒めとしたく存じます。
中日春秋 06(H18).11.6(月)
「杉原さんの勇気ある行為が私を生かしている。息子と孫の命も同じ。」74歳のシルビア・スモーラさんはニューヨークに住む医大教授。8歳の頃の記憶は今も生々しい。
◆ 1940年夏。ナチスの迫害から逃れ、多くのユダヤ人難民がリトアニアの日本領事館に殺到。その中にスモーラさん一家もいた。安全な国へ行くため、日本を通過できるビザの取得が目的。領事代理の杉原千畝(すぎはら ちうね)さんは外務省に指示を仰ぐが、回答は「否」だった。「苦慮、煩悶(はんもん)の揚げ句、人道、博愛精神第一という結論を得」(手記)、ビザを発給した。救った命は約6千人といわれる。
◆ アウシュヴィッツ平和博物館(福島県白河市)で年末まで開催中の「杉原千畝(すぎはら ちうね)の世界」展に招かれ来日、講演したスモーラさんは問いかける。杉原さんはなぜ決断できたのか。ビザを発給すれば自分と家族の身が危うくなる。外務省の指示に背いており、ナチスに追求される恐れがあった。
◆ 妻の杉原幸子さんは著書(「6千人の命のビザ」大正出版)で「夫も私も当たり前のことをしただけ」と回顧している。戦後外務省を追われても決断に悔いはなかった。
◆ 「究極の決断は一度だけでも、杉原さんは人道上恥ずべき行為があったらやめさせる小さな決断をずっとしていたので」。スモーラさんは推測する。良心に基づく小さな決断の集大成が命のビザだと。
◆ 杉原さんの行為は昔の美談で終わるものではない。今こそ小さな決断、究極の決断の時だろう。救いの必要な命がいかに多いか、日々の紙面から伝わってくる。
