寛政6年〜慶応3年11月25日
(1794〜1867.12.20)遷化。
左は當山九世物外不遷大和尚の頂相図(ちんそうず)です。
写真に撮影されたものを、師の没後、明治3年に描き直しました。
元となった写真は、孝明天皇の勅命により、師が慶応2年に宮中文武館の額を揮毫した際のもので、禁裏御用の写真係が控えの間で撮影されました。孝明天皇より下賜された紫衣を着用し、頭にかぶっている帽子は、出雲の国造千家尊孫(いずものくにのみやつこ せんげたかひこ)※から贈られました。 なお背景に描かれている、「勅 七十二翁 物外書」より、
73歳で亡くなる直前の肖像という事が、わかります。
※出雲の国造千家尊孫(いずものくにのみやつこ せんげたかひこ)
明治5年(1873)歿、80才。幕末・明治の国学者・出雲大社御杖代兼国造。歌学に秀で香川景樹・加納諸平等と交わり、出雲付近の歌道の発達に尽力した。著書に『比奈の歌語』『八雲集』等がある。
なお千家(せんげ)は姓(かばね)の一で、出雲大社の国造(くにのみやつこ)を代々務めた。明治にいたるまで、大きな権威をもつ祭祀者として続き、その血統の長さは天皇家に匹敵する。出雲大社の最高神職として、現人神(あらひとがみ)のように信仰をあつめた。南北朝時代に北島(きたじま)・千家(せんげ)の両家に分裂したが、現在も出雲大社の宮司家(ぐうじけ)として出雲国造家(いずもくにのみやつこけ)は続いている。