■物外不遷和尚 略年譜■
出来事
寛政 六年
(1794)
三月、伊予
(愛媛)松山藩の家臣、三木兵太夫信茂の長男として生まれる。母は同家中森田太兵衛の娘。幼名を寅雄、吉次郎。一説には三木兵太夫は武田信玄九代の孫という。物外は、南海道者、観潮楼主、鉄歯山人、無用道人、泥仏庵とも号した。
寛政十一年 5歳 五月七日、松山・龍泰寺の祖燈和尚のもとで剃髪、その弟子となり、愛育される。
文化 三年
(1806)
12歳 春、道後へ入湯に来て龍泰寺に滞在した広島の伝福寺観光和尚に見込まれて、広島に同行。和尚の徒弟になり、得度授戒を受く。 昼は師僧に就いて仏教教典の教授、夜は市中の儒者の学塾へ通う。また、みずから文武の二道に心がけ、浅野家の兵法指南加藤新八郎の道場に通い、剣道たちまちに上達する。
文化 四年 13歳 冬、広島国泰寺僧堂で坐禅修行。
文化 六年 15歳 三月、遊び仲間同士の口論から、茶臼山で子供ながら刀、ヤリ、地雷などを使った本格的な合戦を計画。そのことが事前に発覚し、その首謀者として観光和尚から勘当される。
文化 七年 16歳 一人大阪に出て借家住まいをしながら托鉢修行、儒者に通って学び、夜は坐禅の生活をすること数年に及ぶ。
文化 九年 18歳 諸国遍歴の旅に出る。 山口の瑠璃光寺に滞在、岡山井原の永祥寺僧堂、永平寺にも一時掛搭、この時梵鐘事件あり。
文化十三年 22歳 このころ遠州の府中宿に住庵していたが、たまたま龍泉寺の江湖会で宇治興聖寺の関浪磨甎に出会い、京都に行き興聖寺で三年間参禅工夫に日を送る。一日、『金剛経』を読んで、その無相無我の教訓に悟得する。このとき京璨、回天は同参。
文政 二年
(1819)
25歳 春、興聖寺を辞して京都、尾張にしばらく留錫。 江戸に出て駒込吉祥寺山内栴檀林の加賀寮に掛錫、仏教学を学ぶ。
文政 四年 27歳 長州に遊び、萩の亨徳寺に随身。山口・瑠璃光寺の東林和尚に随って立職、長老となる。 七月、松山の母、森田氏没。 この年、国泰寺後資に所望されたが師の観光ゆるさず。
文政 五年 28歳 広島伝福寺観光和尚のもとに帰り、嗣法。
文政十一年 34歳 春、尾道済法寺住持となる。 この頃より和尚の高名を伝え聞き、武道不遷流の教導をうけるもの急激に増える。門人に武道の免許を与える。
天保 五年
(1834)
40歳 夏、関西中国地方大旱ばつのため雨を玉野浦に祈る。
天保 七年 42歳 長藩の浪士島主水、済法寺に寄食する。九月十日、父信茂死去。松山西竜寺に墓をたてる。
天保 十年 45歳 春、広島藩の槍術指南番河井源蔵の高弟で萩栄女
(二七歳)、薙刀を携え来て教えを請う。 弟子天外、夏、新潟県金津庄内大栄寺の江湖会に世話役として出仕。
天保十一年 46歳 十一月、三石老人の所望により「舎利礼文」を印施。 初秋、鎌倉誠拙周樗和尚の半折十字二行の一幅を入手、愛蔵する。
弘化 二年
(1845)
51歳 暮春、笠岡に遊ぶ。石橋屋丸山久右衛門の家に滞在する。 讃岐、観音寺に遊ぶ。 堂宇を修築。十月より翌年正月十五日まで江湖会修む。
嘉永 元年
(1846)
54歳 雅友の書家貫名海屋翁、済法寺に物外をたずねて「物外抜竹の図」を描く。 春、仙台の儒臣小野寺鳳谷来て物外伝を撰し、江戸の書家中沢雪城これを書く。
嘉永 二年 55歳 冬、「いのちありて話つきせぬ月の友」の句あり。
嘉永 四年 57歳 五月、備中に遊ぶ。門人健二郎の家に滞杖。
嘉永 五年 58歳 句集『壬子扁大』の小冊子を編む。 八月、大本山永平寺高祖大遠忌に山内都監役として出仕する。 九月三日福井を発つ。
嘉永 六年 59歳 貫名海屋、再び済法寺を訪れる。
安政 二年
(1855)
61歳 三月、大阪に遊杖。 四月十八日、大阪の登鶴楼にて物外の周甲
(六十歳)の寿筵開催される。海屋ら集う。
文久 元年 67歳 冬、出雲宍道の木幡梅屋居士の独楽窩に楽しむ。花守と人はいふらん庵ひとり。 春、京阪に遊杖。
元治 二年
(1865)
71歳 三月十七日、済法寺を全之長老に譲り、隠居。 門人田辺虎次郎を従えて上京、勤王のため朝幕の間を奔走する。
慶応 二年
(1866)
72歳 俳人の番付表「慶応政正海内蕉風声価集覧」に物外の名あり。
慶応 三年 73歳 十一月二十五日、海路で尾道に帰途中に大阪立売堀の旅館福島屋で示寂。大阪中寺町の禅林寺で密葬。のちに済法寺で本葬が営まれた。
(高田道見『物外和尚逸伝』、中山英三郎『拳骨和尚の逸話』、原田弘道『剣禅一致の人・物外不遷』、吉川聖準『物外和尚の行実』等を参考)