「工部祠」の中にまた「詩聖杜拾遺像」という石碑が立っており、杜拾遺は杜甫先生のことで、それは唐代の皇宮の聖賢図鑑に基づいて彫刻したものですので、その像が実物に近いと言われています。頬骨が突き出ていて、体が痩せこけている杜甫先生が自分の困窮流浪にもかかわらず、国と人民のために憂えていることを浮き彫りにされたのでしょう。唐の首都長安は「安史の乱」のため、荒廃していることを憂いた、「春望」の詩を吟じてみると、さらに理解できるでしょう。
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「工部祠」を出て、左側に藁葺きの屋根があり、中に「少陵草堂」という清代に立てられた石碑が見えます。「少陵」とは杜甫が以前に住んでいたところの地名です。杜甫先生がよく詩の中に「杜少陵」「少陵野老」と自称していたことから「杜甫草堂」は「少陵草堂」とも呼ばれております。その屋根となっている藁葺きは当時の杜甫先生の藁葺きと同じにするように造られたもので、石碑と一緒に「杜甫草堂」のシンボルとなっています。 |