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■ 杜甫草堂 ■
杜甫草堂入口
実際の杜甫草堂は「花径」から始まる。「花径」という言葉は杜甫の詩、「花径不曽縁客掃」より、当時ここは花で一杯であったと推定されたことから、「花の道」の意味として「花径」と名付けられた。対聯「花学紅綢舞、径開綿里春。」詩 郭沫若「花」と「径」が詩中に入っている。
話:成都地区ガイド呉健蓉
杜甫、李白と並び称される唐代の詩聖。「安史の乱」を避けるため759年に家族を連れて南下し成都で三年半ほど暮らしました。流浪の詩人杜甫は友達の援助を受け、今の杜甫草堂で藁葺きの家を建て、貧しい日々を過ごしています。唐の直後、五代十国時代に初めて祠堂が建てられました。これを土台とし、以後改修が行われたが、特に明・清代に大規模な改修が繰り返され、現在の規模となりました。杜甫草堂の入り口は二つあり、普段利用されているのは正門ではなく、南門(南大門)です。正門は、いつも閉まっています。その訳は、当時の杜甫の質素な生活を、後世の人々に実感してほしいからです。
赤壁が続く花径(かつては花でいっぱいだった・・・)
柴門

話:成都地区ガイド呉健蓉
花径を抜け、せせらぎに沿って歩き、左に曲がると「詩史堂」と「大廟」があり、右には「柴門」と「工部祠」、そして藁葺きの建物が見えます。「柴門」とは扉のことで、杜甫先生の家の門のことを言います。杜甫先生は、ここで友達や来客の送迎をし、またこの門から出て、せせらぎで魚釣りをしていたと伝えられています。また「花径不曽縁客掃、蓬門今始為君開」は、「客が来ても花径の掃除もしていなかったが、蓬門を今 君の為に開けた。」という。杜甫先生の生活の様子がよく表れている詩でもあります。詩中の「蓬門」は「柴門」をさし、質素ながらも生活の趣となっていたことが伺えます。「柴門」を抜けると、「工部祠」があります。「工部」とは官職の名で、杜甫先生がこの職に就いたことがあることから、人々から杜工部とも言われています。工部祠の正面両柱に「錦水春風公占却、草堂人日我帰来。」と清代の何紹基が書いた対聯が見えます。「公」とは杜甫先生のことで、「人日」とは旧正月からの七日目をさし、昔はその日に杜甫草堂を訪れる習わしがありました。「錦水春風」とは杜甫草堂の中を流れている渓流で浣花渓を指している。「草堂の自然景観を、杜甫先生が持っていましたが(先生がもう亡くなられたので)、人日に私が帰ってきます。」と読め、その言外には、特に「公」と「我」との対応により、作者が杜甫先生の後継者と、自負していることがわかります。
中に三つあるうちの、真中が杜甫先生の龕(がん)です。微笑みながら何か話している杜甫先生の像は、ふっくらした顔付きをしています。その両側に御伴しているのは宋代詩人陸游と黄庭堅で、二人は杜甫先生と同じ「忠君愛国思想」を持ち、現実主義の詩風をなし、さらに、三人とも蜀に滞在したことがあるなどの共通点から一緒に祀られました。

工部祠

【春望】
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じて花にも涙を濺ぎ
恨別鳥鷲心 別れを恨んで鳥にも心を驚かす
峰火蓮三月 峰火三月に蓮なり
家書低万金 家書万金に低る
白頭掻更短 白頭掻けば更に短く
渾欲不勝簪 渾で簪に勝えざらんと欲す

最も実物に近いといわれている杜甫像
石碑「小陵草堂」

「工部祠」の中にまた「詩聖杜拾遺像」という石碑が立っており、杜拾遺は杜甫先生のことで、それは唐代の皇宮の聖賢図鑑に基づいて彫刻したものですので、その像が実物に近いと言われています。頬骨が突き出ていて、体が痩せこけている杜甫先生が自分の困窮流浪にもかかわらず、国と人民のために憂えていることを浮き彫りにされたのでしょう。唐の首都長安は「安史の乱」のため、荒廃していることを憂いた、「春望」の詩を吟じてみると、さらに理解できるでしょう。

 
「工部祠」を出て、左側に藁葺きの屋根があり、中に「少陵草堂」という清代に立てられた石碑が見えます。「少陵」とは杜甫が以前に住んでいたところの地名です。杜甫先生がよく詩の中に「杜少陵」「少陵野老」と自称していたことから「杜甫草堂」は「少陵草堂」とも呼ばれております。その屋根となっている藁葺きは当時の杜甫先生の藁葺きと同じにするように造られたもので、石碑と一緒に「杜甫草堂」のシンボルとなっています。

詩史堂
杜甫

「柴門」「工部祠」と一直線に並んでいるのは「詩史堂」と「大廨」です。「詩史」とは詩の歴史という意味で、杜甫先生が現実を反映する詩を多数創作したことから、現実詩人と言われました。その詩は歴史を反映する詩となりました。皆さんよくご存知の「春望」と「登楼」も現実詩で、これらの詩から唐代の繁栄から衰退への歴史が分かるという意味で「詩史堂」と名付けられました。中心部に杜甫の半身像があり、その両側に「草堂留後世、詩聖伝千古」と書された対聯がかかっております。草堂も杜甫先生も永久に朽ちることなく、後世に伝わるという意味です。「大廨」は事務所という意味で、杜甫が生涯で二回出仕したことがありますが、貧しくて自分の事務所さえ持てなかったのです。人々は杜甫先生が事務所を持つべきだという善良な気持ちからこの「大廨」を建造しました。しかし、大廨(事務所内)には机も椅子もないことから、その貧しさが感じられるでしょう。
中央にもう一つ杜甫の銅像がおかれています。杜甫が髪を撫で突け、風に向かい遠方を眺めている姿です。鬱々と志が遂げられないことが、その顔から確実に感じとることができます。国に自分の才能を捧げたいのですが、奸佞(かんねい:心の底まで悪で固まっている人)が権力を持っているために、それが実現できないことはどんなにつらいことだったでしょうか。さらに、国も紛争に陥ってしまい、自分の家にさえ帰れなくなり、人々の生活はさらに苦しくなり、今後はどうなるのだろうかと、杜甫は国の将来と人民の境遇を心配していました。しかし、歴代に重用にされていない、人材は杜甫だけではなく、「大廨」の中に掛かっている清代学者顧複初の対聨「異代不同時、問如比江山龍蜷虎臥幾詩客」先生亦流寓、有長留天地月白風清一草堂」も自分の不遇と失意をよく表したものです。「杜甫先生の時代と違う、今日の国には私のような詩客が、また何人居るのだろうか。」「先生もここに来て、少なくとも後世にこの草堂を遺した(しかし私は何も遺していないという言外の意味が含まれている)。」と清代学者顧複初が、杜甫に負けない才能を持っていると自負心を抱きながら、自分の境遇がもっと厳しいことを嘆息しました。このことから、非常に中味の豊富な対聯として名高くなりました。文物古墳蹟の説明は以上です。