- 師は相撲が大好きにて興行のある度ごとに大抵は見物に出向かれたという事であるが、師が壮年の頃江戸に遊学中本所の回向院に将軍様御上覧の相撲があった時、破れ衣を着て見物に行かれ、土俵間際に居座っていかにも興に乗じて嬉しがり、折節は批評なども入れられたものと見え、僧侶のことであるから取り分けて相撲取り等の目障りにも耳障りにもなったらしい。そこで彼等が申すには「坊主のくせに小癪なこの力士に向かって……。力があるなら一番とってみろ。」というので師もやむなく若気の盛り「それでは一番とろう。」と来る者も来る者も、まるで幼年の児童(こども)を扱うが如く、取り組みもせず手の先で二・三間ずつもブン投げられるゆえ、数千の見物人は何れも皆驚いて見ていたそうである。斯くて二・三十人もブン擲(な)げられてモウ誰も怖じけてかかってくる者がなくなった頃、チョット小便に行くとて、そのまま何れへか身を隠し遁(のが)れられたということである。
- 次に京都鴨川の河原で相撲のあった頃師も丁度京都におられたので、例の好きなものであるから見物しておられた。時に力士が物外和尚とは貴僧の事でござるか。予て大力士ということを聞き及んでおることでござるが、貴僧の力は凡そどの位あるのですかと、傲慢らしい語調で言うから、師は生意気なと思われたものと見え、イヤサ拙僧とて化け物であるまいしそんなに力があるでもないがと云いザマ力士の首筋をつかみ自分の向脛にスリあて、「まあ、こんなものさ」とて微笑せられた。大きな力士を三つ子でも弄ぶようにせられたものゆえ、忽ち平身低頭してその無礼を過ったとある。
- 泥佛庵の事
師が自ら泥佛庵と称せられたのは如何なる訳柄(わけ)であるかというに、それは、但馬国出石の藩士に山本庄蔵という者があった。その者が仔細あって出石を退去し姫路藩に仕え酒井公の寵愛を受けていたそうであるが、山本氏は素より師と入魂の間柄とて、あるとき君公に向かい師の怪力談を言上せしに君公は膝を打って喜ばれ何とかして当地に招待することはできまいかとの事故、イヤ左様な思し召しで荒せらるゝならば和尚の意向を聞いてみましょうとて、済法寺にいたり申すよう「君公殊の外尊師を慕うておられるゝこと故、暫く御隠棲のつもりにて姫路にご光来を願われますまいか。」と師の意向を聞きたるに、師は快く承諾せられたので、山本も大いに悦び直ちに引き返して言上せしに公も大いに悦ばれ、それならばと早速一庵を新築して師の来錫(らいしゃく)を請われた所が、師は二十人の僧徒をつれて白鷺城に到り酒井公に対面せられた。
時に公の申さるゝよう「山本より予て和尚の怪力談を聞いてから頻りに慕わしくなったので、来錫を患わすこととなったのであるが、どうぞ一つその怪力を拝見したいものでござる。」とのこと故、師は早速公の思し召しをうけ委細承知仕りましたと。それから直に須磨港に公及びその他の人々と到られ、先ず漁船の手皿洗いをなし、ついでまた碇縄を以て七十人と力を争い、かつその記念として其の碇縄を寸々にねじ切り、その場に有り会う人々に分配をせられたので、公はいよいよ寵愛帰依の度を高め、遂に七十人扶持を師に与えられたそうである。時にその庵を名づけて泥佛庵と称せられた。
ある夜、山本氏は泥佛庵を訪い申しけるよう「貴僧は最早老体ではあらせらるるが、どうぞ拳骨の遺物を賜りたいものですが。」と乞いしに、師はこれを快諾せられて、欅の厚さ一寸 長さ一尺六寸 幅九寸の額面に『敬遠』の二字を認(したた)められ、落款は物外といへる文字の下に拳骨の印を以てせられ、一面をば酒井公に、一面をば山本氏に、一面をば泥佛庵に遺された。
これは、安政元年の事にて師の年齢五十九歳の時であった。
- 両雄競力の事
師が加州金沢に居られたとき。
犀川の橋上を歩行せらるゝ折柄向うより立派な武士が来かかったので、孰(いず)れか歩みを左右に転ずれば何事もなしに済んだのであるけれど、師も血気壮(さか)りの時で胸に一物あるから、エラそうな面つきでもした武将などに遇われたときには一歩も譲らぬという気象。向こうから来かかった武士も亦武士、これも天下に有名な英雄であるから雲水僧ぐらいに道を避けるというようなこともない。両方が皆胸に一物を蓄えておる。ソレ者(しゃ)とソレ者の出会(であい)であるから忽ち衝突を来して腕力沙汰となり取っ組み合いとなった。その拍子に欄干が破壊して二人がドンと皮の中へ墜落したけれど、幸い水のなき礫(こいし)河原であったから相互共にびしょ濡れとはならなかった。してまた、河原の中で阿吽の取っ組み合い。強力(ごうりき)と強力との金剛力(こんごうりき)であるから、側より仲裁することも出来ないゆえ呆れてみておると、その二人が組み合うて押行(おしゆ)く河原の小石が十間も二十間も掘れてゆくというので、みる者は何れも肝を潰しておる。
時に、いつまでやっても勝敗がつかぬから、武士の方より声をかけ、
「モウ止めようではござらぬか。どうも貴僧のような力の強い者に逢ったのは、今日が初めてゞある。」
時に、師の申さるゝよう
「イヤ、拙僧も亦尊公の様な大力の者に出会わせたのは、今日が今日が初めてでござる。」
武、「全体、貴僧は如何なる名のお方で御座るか。」
師、「イヤ、拙僧は備後の雲水僧物外(もつがい)と申す者で御座る。して、尊公は…。」
武、「イヤ、拙者は戸田越後守(とだえちごのかみ)と申す者にて前田家に聘されて近頃金沢に居るもので御座る。コレはまあ不思議なご縁じゃ。どうで御座る、お互いに得意の術競べをしてみては…。」
師、「イヤ、それは面白い事で御座りましょう。」と夫れからその場を立ち退き千光寺に到りての術競べ……。
この戸田越後守というは、戸田流の開祖にて中々天下に有名なもの。この人の得意は気合い術と申して、三間五間乃至十間二十間以上遠きにおる人でも其の術をもってにらみ据えたならば、その者がバッタリと倒れてしまうという神術。師もこれには驚かれたと見える。 時に戸田氏がこの術を行われた所が、案の如く忽ちにバッタリと打倒(うちたお)れたので、師も大いに賞賛せられた。所で、師は千光寺の門柱に例の拳骨を入れられた所が、其の堅木が凹んだので戸田氏も大いに感心せられたとある。夫れから二人は非常に仲好となって互いに技倆の交換もせられたという事じゃ。