墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第16 遷化

僧侶死すれば必ず遷化というけれど、或いはその当を得ない人が多いかも知れない。その故は読んで字の如く、この世の化縁が尽きたなら他界に遷して更に他土の衆生を教化するということになる。徒に酔生夢死して碌々教化もできなかった人に対して、遷化というはチトもったいないであろう。然るに師は敢えて談議僧の如く、説教師の如く富樓那(ふるな)の弁を以て世の善男善女を説きつけられたという様な形跡は見えぬけれど、その武芸怪力を以て強力難化(ごうりきなんげ)の傲慢無礼の衆生を教化せられたことは広大無辺なもので、それらの点については各宗の祖師開山たりとも悠に及ばぬ大力量を備えておられたといわねばならぬ。或いは禅機風雅の道を以て随喜開導せられたことも莫大なものである。如何なる剛愎勇悍(ごうふくゆうかん)の人たりとも、ひとたび師の逸話を聞かば、舌を巻いて賛美驚嘆せざるものはない。故に、師の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)は天下人をして感嘆惜しからざらしむことばかりである。その恩波(おんぱ)に浴するものは幾千幾万あるかもしれぬ。予が寸隙(すんげき)なき身を以て本伝の編纂に従いたるも、つまり報恩の事業と思うからのことである。師の如きは真に再来権化(さいらいごんげ)の偉人である。故にその来たるも菩薩度生(ぼさつどしょう)の方便、その去るもまた菩薩度生の方便であるから、師の示寂(じじゃく)、師の入滅こそ真の遷化といわねばならぬ。さればその遷化の始末を記して将来に伝うるはすこぶる必要である。いかに再来の偉人豪傑たりとも此の肉体を受けてきたからには、生老病死(しょうろうびょうし)を免かるゝことはできぬ。

師は慶応三年卯の八月中旬大阪に向かわれ福島屋長兵衛と言へる宿屋に逗留せられて潜に世の風雲を詠(なが)めておられたときに、広島より野村と言へる人が訪問して種々の相談を致され、早速帰国して長州へ赴くこととし宿料の支払いをなし、十一月の下旬和船に乗りこまるゝつもりにて荷物まで積み込ませられたのは二十五日のこと。明朝はいよいよ出船すということを船頭と約束なされ、そうして永々(ながなが)厄介になったからとて宿屋の家族などへ夫々(それぞれ)茶を呑ませて色々な噺(はなし)をしておられた。其処(そこ)へ備中から門弟の田邊重次郎なる者が尋ねてきたとある。ときに師の申さるゝよう「田邊。何だか少々気分が悪いから、背中をたたいてくれい。」との事故、田邊は命に従い背筋をトントンとたたいていた。スルと、師は何の苦痛もなく、そのまま眠るが如く寂然として遷化せられた。
ソコで、宿屋は申すに及ばず門弟田邊も途方にくれ「コレはまあどうしたらよいであろうか。とにかく、酒造家の三谷屋市兵衛様は、お師匠様の帰依家であるから通知をして何とか処置をつけて貰おう。」とて老師の突然御遷化の事をを告げたところが、同家でも大いに驚き駈け来たって、それぞれ手配をなし、遺骸をば白木の櫃(ひつぎ)に納めて早速三谷屋に連れ帰り、三谷屋よりは中寺町禅林寺に頼み込み密葬の式を済ませ、そうして置いて済法寺へ通告した様子である。その時三谷と田邊とがいかに苦心したかは左の古文証にても推知せらるゝ。

差入申印證之事
一、備後尾道済法寺隠居物外和尚様拙宅にて長々御滞留之處今般御病気に御取合被成種々御介抱等申上候得共養生終に不被為相叶命終被遊候に付則御家来田邊様において殆ど途方に御暮被成候故 御尊寺様へ譯(わけ)て御願申上候 御宗法(ごしゅうほう)密葬御取計之程奉願上候處実正明白也 然る處格別の御法愛にて御宗法通り御境内へ御取置被為成下候段難有仕合に奉存候 然る上は右物外和尚様之儀に付向後如何程之儀到来候とも貴寺様へは毛頭御苦難相懸け申し間敷候為後日差入申證札如件

..慶応三卯霜月廿五日

........................................................................................................家来願人重次郎
.........................................................................................................引請人……三谷屋市兵衛

.禅林寺様 御知事


この三谷というは、同所四ツ橋と申す所にあったので師の遷化は同日申の刻と書き記してある。かくて密葬は禅林寺においてせられたので、その時の費用万端を記した帳簿までが今尚チャンと保存せられてある(済法寺に)
而して師の本葬は同年十二月十二日済法寺にて盛大に行われた様子。今に同寺にはその時の香奠帳から遺贈分配帳までが保存せられてある。
師は済法寺の中興にて九世にあたる。不遷はその號にて、物外はその諱である。師の兵法を不遷流と唱えたのはこの訳(わけ)にて、その兵法は実に師の天有(てんゆう)であったものと見える。嗚呼人命は実に無常仏陀が呼吸の間は在り仰せられたのは万代不磨(ばんだいふま)の金言である。師が客舎(かくしゃ)に於いて遷化せられしは、甚だ遺憾であったが、幸いなりしは途中の船中でなかったから、遺憾の中にも尚諦め安きの点がある。
(写真:日没)