墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第15 勤王
師は荒武者のようであるかとすれば忍辱慈悲の法衣を着しておられる。権門に出入して威儀堂々たる大和尚かとすれば、破衣糞掃(はえふんぞう)を纏うて一見凡僧の装いをしておられる。謹厳にして犯すべからざるが如き禅学者であるかとすれば囲碁将棋の遊戯をなし、書家のようにもあれば俳諧のようにもある。洒脱(しゃだつ)にして風流を楽しみおらるるかとすれば頗(すこぶ)る勤王の精神に富んでおられた。どうも何れの方面から見てもその正鵠(せいこく)ならざるはなしとでも申したいようである。蓋(けだ)し師が勤王に奔走せられたのは其の晩年に及ばれてからのことらしい。

慶応年度長州征伐の砌(みぎり)、広島候 三原候 丸亀候 高松候の諸大名方が某所に集会せられ、種々商議の結果として老師へその調停方を委嘱せられた所が、年老で尚、壮(さか)んな老師は直ちにこの事を快諾せられ、願書を認(したた)めて両三度も朝廷に奉呈せられたれど、朝廷よりは何等(なんら)ご沙汰もなきゆえ、やむなく門弟 田邊虎次郎を召し連れてわざわざ上京し予(かね)て親密の間柄なる粟田御殿内の諸役人に相談せられた所が彼等の申さるゝよう「貴僧はもはや御老体のこと故、かかる重大事件は御見合わせになった方がよろしいのではござらぬか。」と諫(いさ)め申したれど、師はなかなかこれを聞き入れず「イヤイヤ、どうして折角こうして上京したものですから、ぜひともお上へ愚存(ぐぞん)を通じたいと思います。」とて願書を門弟虎次郎に持たせ禁裏へ直訴に及ばれた所が、狼藉者としてとらわれたときに、虎次郎が申すよう「私は物外老人の使者(つかい)でありまして朝敵でも何でもありません。老人から再三再四哀願書を奉呈せられたれど何等(なんら)のご沙汰に接せぬものですから、老人が今度この願書を携帯して上京致したので、私は門人のことゆえ随行してきたものでござります。たといこの身は砕かれて微塵にせらるゝも持参せし願書をば是非御前(ごぜん)へ伝奏(でんそう)して頂かねばここを去りませぬ。願書が貫(つらぬ)くと否とはもとより測り知られぬ所でありますれど、只々 御奏呈下されさえすれば、それで満足つかまつります。」と申すゆえ門番の役人は實(げ)にもと思われしものと見え、遂にそれを伝奏し奉ったということである。

それから其の翌々日畏(かしこ)くも孝明天皇陛下より老師を御前へお召しになったので師は大いに喜ばれ、天顔(てんがん)に咫尺(しせき)して一々願意を奏上せられしに 陛下には殊の外勤王忠誠の願意を嘉(よみ)したまい、ついには忝なき御諚(ごじょう)の趣きあり長州へ下向せらるゝことになったのは誠に身に余る老人の光栄というものである。

然るに師はその長州へ下向せらるゝの途次、大阪にて病みつき、遂に同所にて遷化せられたのは誠に千秋の遺憾であった。而して勅命の趣は師の後住全之(ぜんし)和尚が奉還の為参内せられたということである。故に師は内乱調停の労を執らんがため古希の身になるも厭わず、途上に於いて放身捨命せられと申しても過言ではなかろうかと思う。師は実に法のため国のため倒れ伏すまで化 他門に遊化せられたと申すべきである。

(写真 青蓮院小御所)
【語注】
正鵠 せいこく 物事の要点を又は急所。
商議 しょうぎ 相談し合うこと。協議。
田邊虎次郎 たなべとらじろう  本名は重次郎、物外和尚様の命により虎次郎に改める。物外の行くところには必ず付き従い、物外和尚様の最期も看取った。二代目田辺禎治の長女と結婚した。盛武館を設ける。
愚存  ぐそん 自分の考えをへりくだっていう語。愚意。愚考。
禁裏  きんり 《みだりにその中に入ることを禁じる意から》 天皇の住居。皇居。禁中。御所。
狼藉者  ろうぜきもの 乱暴を働く者。
御前  ごぜん 神仏・貴人のおん前。おそば近く。みまえ。
畏くも  かしこくも 申すも恐れ多いことに。おそれおおくも。もったいなくも。
天顔  てんがん 天子の顔。
伝奏  でんそう 取り次いで奏上すること。
咫尺  ししゃく 貴人の前近くに出て拝謁すること。
嘉する よみする  よしとして褒め称える。
御諚  ごじょう 貴人・主君の命令。おおせ。おことば。
遷化  せんげ 《この世の教化を終え、他の世に教化を移すの意》高僧や隠者などが死ぬこと。
参内  さんだい 宮中に参上すること。
 け 仏語。教え導くこと。教化。
他門  たもん ほかの一門。
遊化  ゆげ 《遊行教化の意》僧が諸所に出かけて人々を教化すること。