墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第10 武 芸
師は、忍辱慈悲の法衣を身にまとう禅僧にして、別項の如く怪力の外は、なお深く武道に達しておられたのは亦天禀と言わねばならぬ。師は僧業を修むるの傍ら、何時まにかこの武芸を稽古せられたものやら。又誰を師として修行せられたものやら。はなはだ不分明である。その、小僧にてありし時、広島国泰寺にて茶臼山の合戦を企てられた手際から推して見るも、武芸にとりては先ず生知の偉人というより外仕方がない。撃剣(げつけん)なり、槍術(そうじゅつ)なり、柔術なり、鎖鎌なり、なんでもこいというのであるから、武芸の門人が三千人に及んだと申すことである。 今でも、済法寺の室中に「諸風流遠鶴控」と「入門人名録」など師の直筆にて書せられたものがある。前者は一寸面会に来たものの姓名住所を認(した)めあり。後者は全く入門の士名を自書せしめられたもので、なかなかやかましいものと思われる。その入門録の始めに師の直筆にて左の如きことが書き留められてある
 
一、
當流入門之輩者入門之不拘先
後依錬磨功目録差出候事
当流に入門の輩は、入門の後
先に拘わらず、錬磨によって
功目録を差し出し候事
一、
山僧之業前不落着輩者佗流入
門勝手次第可被到候事
山僧の業前に不落着の輩は、
他流の入門は勝手次第に被り
到りべく候事
一、
目録以上之輩者佗流入門等堅
不相成候事
目録以上の輩は、他流の入門
等、堅く相成らず候事
右之條々堅可被相心得候事
右條々は堅く相心得被りべく候事。
右條々は堅く相心得被りべく候事。
月 日
済 法 寺

物 外 僧

されば、その中にある人物を茲に掲げて見ようか。


林来次 免許 中村粂蔵 同
増田岩助 藤島常八(目録)
林又兵衛 (以下略す)

以上百八十七名

武芸の門人は三千人と言う位であるから、この外にも入門人名録はいくつもあったろうと思うけれども紛失してしまったので、之を詳らかにする事のできないのは遺憾である。この外に「柔術門人記名録」なるものがある。

小林貞兵衛 平田新助
津川喜久次郎 平田茂兵衛
清水満吉(以下略す)

これらの人名録を見るにつけても、師が如何にその武芸に達しておられたかが伺い知らるるのである。尚又武士道に就いての起證文なるものがある。
起證文
一、方丈様と師弟之契約仕候處今 般意治銭輪御相傳被成下忝奉 存候然る上は他人は不申及親子 兄弟たりとも全他言仕間鋪若他 言仕候者日本武尊其外六十余 州大小之神祇中にも伊豆箱根 両社権現讃岐金比羅出雲の国 大社大明神別而は可豪摩利尊 天之御罰者成依而如件
安政四丁巳年四月八日

檀上内蔵太 義寛「花印」

御師 物外大和尚
これは前記「柔術記名録」の中に列ねてあった一人である。何の道でも、おろかはなけれど、武道は殊にやかましいものとみえ、かくも神明に誓って師弟の契約をなしたものと思われる。その身、沙門にして、方丈大和尚と呼ばるる人が、かくも武芸の門人を多く得られたのは実に空前絶後と言わねばなるまい。 前記「入門録」の初めに「依錬磨功目録差出」とある。その目録とは、兵法の目録箇条の事であるが、その箇条は如何様なものにて、何箇条あったのか、今はそれを知ることができぬ。必ずや神妙なる秘訣があったに相違はない。
しかし、起證文にもあるが如く「親子兄弟たりとも、他言は不仕(つかまつらず)」と神明に誓うたのであるから、解ろうはずがない。その、みだりに解らない所に、興味がある。これを、禅門で言えば、「室内の相伝」「以心伝心」とでも言うべきものである。
師が怪力を有せらるる上に武道の秘妙に達しておられたのは、何れ摩利支天(まりしてん)から、その秘法を伝授されたのかも知れぬ。
近藤勇の道場を荒らす
年月日はしかと解らねど、維新以前の事というのであるから、安政の頃でもあったかと思わるゝが、師はその頃、京都の南禅寺の塔頭に留錫しておられた。その頃、幕臣にて、近藤勇というものが、新選組の首領として京都にいたそうであるが、多少剣術に達しておるものから、傲慢にして人を人とも思わぬような有様にて、暴横を極るゆえ、潜に彼を悪まぬものはなかったそうである。時に、師はこの事を聞知しておられたか、どうであったか。師のことであるから、とくにこれを聞知し、一つ折もあらば、彼が傲慢の鼻をへし折ってやろうという、お考えがあったかも知れない。一日市街を散歩して新選組なる屯所の前を過ぎり見らるるに、竹刀をもってうちあう声が喧しく聞こゆるゆえ、成るほどやっておるなと独り合点をなし、もとより望む所であるから我知らず立ち止まり、幕外(まどのそと)よりこれを見ておられた。すると忽ち数人の壮士が道場より出で来たり咎めて言うように「其許(そのもと)はなんだ。假にも武士の邸(やしき)を窺うは無礼であるぞ。」しかりつけるから、師は只管(ひたすら)腰を屈(かが)めて慇懃に謝して申さるゝよう「私は近頃遠国の田舎から出てきた雲水坊主にて、一向に礼儀の程を辨(わきまえ)えぬものですが、余りに盛んな音がするものですから、ツイ、覚えず知らず立ち覗いたのです。どうぞ、平にお許し下さい。」と申さるゝゆえ強いても之を咎めなかったそうである。
然るに壮士等は何を思うたやら、田舎坊主を玩弄してみるも面白からんと思うたものとみえ、「併し坊さん、仮にもこの道場を窺うからには、定めし武術の心得があるからの事であろう。とにかく、中に入って一太刀やってみられよ。」と頻りに勧めるゆえ、逃げるにも逃げられず、やむなく恐るおそる武士の後ろに従うて道場に這入られた。師は例の破れ衣を着ておらるるゆえ、青年の武士等は一見してこれを侮り、「いや、これは面白い玩弄物が舞い込んだ。」と我勝ちに竹刀を把って向かう。師は少しも騒ぐ色無く、その腰にせし鉄如意をもってこれに當り、幕直に敵の竹刀を打ち落とし、暫時の間に数十人の壮士を撃ち伏せてしまわれた。
この時まで上座に見ていた武士は長槍を手に執り、其処に躍り出て申すよう、「いやどうも、貴僧の技量はなかなか若き武士どもの及ぶ所ではござらぬ。御承知でもござりましょうが、私は近藤勇と申す者です。いざ、一手試みましょう。」と云うにぞ、師は意図(いと)驚き、恐れたる風体にて、地に伏し屈み、「はぁ。貴殿が近藤先生でござるか。先生は武道の鬼神なりとてその名声は世に高く聞こえております。どうして、私如き雲水僧など遙かに及ぶ所ではござらぬ。どうぞ、その義はひとえに御免被ります。」と頻りに辞退せられど、勇はなかなか効かず「いや、是非一太刀試みたい。」とて、迫るゆえ師も辞するに言葉無くそれではと、また鉄如意を把って起たれた。勇の申しけるよう「およそ、武技を闘わすに皆その器がある。鉄如意では不都合でござる。貴僧も是非、竹刀又は槍をとられよ。」と。時に、「師の申さるゝようではありましょうが、私は僧侶のみであります故、武器を執るは甚だ忌む所でござる。この鉄如意にてたくさんでござる。」と斯様に申されても勇は聞き入れぬから、それではと師は頭陀袋の中より木椀二個を取りだして、左右の手にその糸じりを?み、「いざ、何れよりなりとも突きたまえ。」と云われしに、勇はその意外なるに呆れ且つ怒り、一突きに倒してやらんと睨みければ、師の方に少しの寸隙もなきゆえ、凡そ半時ばかり睨んでおった。やがて、隙でも見つけたものとみえ、全身に力を込め巖石(がんせき)をも突き抜く勢いにて「ヤッ。」と突きつけた。この時、師の胸板は微塵に砕けたかと思いの外、師は「ヒラリ。」と身を換わし、直ちに両の腕をもって槍の蛭巻(ひるまき)を挟まれた。勇は之を外さんとすれど、盤石の如くにして、ちっとも動かない。勇は玉汗を流して、あらん限りの力を尽くせども、引くことも突くことも叶わぬ。良久(ややひさ)しゅうして、師は雷の如き一喝を下すと共に、その腕を放された。所が、勇は忽ち後ろに腰を突き、槍はその手を離れて三間(さんげん・一間=1.82?)も飛び去った。時に、勇は礼を正し、貴僧は実に万人に優れたる御技倆。なかなか我が輩どもの及ぶ所ではござらぬ。さて、貴僧は何国(いずこ)のお方でござるか。」とその名を問う故、師は之に答えて「拙僧は、備後の物外と申す者でござる。」と。時に勇は益々恐れ入り、「はぁ。さては、世に名高き拳骨和尚様にておわすか。」と厚く礼を述べて、師に饗応をなしたという事である。これより、師の名声は京洛中(きょうらくじゅう)に轟き渡ったとある。

師の兵法はどう考えてみても、人間業(にんげんわざ)とは思われぬようである。僅かにこの一事をもってみても、万事が推測せらるる。唯々、恐懼(きょうく)するより仕方がない。


雷公の力と柔術の極意
安芸の剣客一滴斉河内次郎といえる者は、その当時武術をもって関西に鳴り渡っておる。彼が壮年の時、武術を修むるために東遊し、その途次たまたま尾道を過ぎり、師の武道に達してござると云うを聞き、済法寺にいたり師の教えを請うた。すると師は突然「その許は、何のために来たのであるか」と問われた。次郎はこれに答え「和尚の喧嘩に殺されんがために来たのでござる。」と申したところが、師はその言の奇なるを愛し、数月の間、これを留められたそうであるが、一日師は左の一句を書いて与えられた。
雷公(なるかみ)の
力も蚊帳の一重哉
且つ、告げて申さるゝよう、柔術の極意というは、すなわちこの事である。老僧がその許を殺活(せっかつ)して授くるところのものは、この外にないぞと。次郎は深く此の句意に参じて柔術の玄旨を得たと申すことである。

腕竹篦の力
これは武芸ではなけれど。嘉永の頃、師が京都におられた時、加洲金沢の藩中が京都の宿屋に逗留。師もそこに遊びに往かれ、碁を打って楽しまれ、終わりに竹篦の入れ合いを致すこととなり、藩中の申すに先ず貴僧より受けられよとのこと故、師は右手を出して受けられ、「随分よく応えます。次は貴殿らのお受けなさる番ですネイ。」と藩中もやむなく右手を出した。そこで師は力を込めていれんとせられしに、その間一髪というとき、師の顔色を見たところが、如何にも物凄いようであるから、急に怖じ気がさし、ひょっと手を差し引いて外した、その勢いに竹篦は碁盤に入れられた所、その碁盤に跡がついたそうである。時に藩中のものは大いに驚き、且つ感服してその碁盤を所望し、国元へ持ち帰り前田家にこれを納めたということである。

大力武者を弄す
師は、文久元年の三月に済法寺を発錫(はっしゃく)して、備中松山に遊び、門弟なる建次郎といえるものの宅にて、五〜六ヶ月も書見をしておられたが、それより出雲国へ漫遊せられ、松江城下の宗仙寺に到り、隠寮を借りて逗留しおられし折柄、伯耆国より身丈六尺八寸(一尺=約30.33cm 一寸=約3.03cm)もある大力無双が尋ね来たり。尾道の今弁慶に対面致したいと申す故、これを師に取次たれば、師は快く之に対面を許された。所で師は漸く身丈五尺七寸位であるから、大力武者は何となく之を侮る様子。「貴僧は世に名高き今弁慶。一度力あわせを願いたい。」というから、其れではと広庭に土俵を構え、日を定めて立会をするということになったところが、この事忽ちに城下に聞こえ見物は山の如くにおしかける。時到りて二人は土俵に立ち並び、一声に叫んで取り組むかと思えば案に相違、大力武者と誇れる彼は、師のために小児を弄するが如く、宙に引っ提げられ、三間(一間=約1.82m)ばかりも向こうの方へ打ち投げられた。
この時、見物の諸人は大いに驚き、「いや、どうも物外(もつがい)禅師の大力、とても凡夫の業とは思われぬ。」と褒め囃し、拍手喝采一時は鳴り止まなんだと申すことである。大力武者と称する彼は大恥のかきあげ。如何に大力武者と名乗ってみてもどうせ師の怪力に打ち勝つことはできない。彼はこれを遺恨に思いしものと見え、翌晩師の逗留しおらるゝ隠寮へ黒頭巾を被り朱鞘の大小を腰にした武士が「物外は内(うち)にか。」と云いながら、ツカツカと入り込み、二階へ上がり掛かろうとするところへ、小使左門等三人が直ちに駆けつけ其の梯子より引き下ろした。かの曲者は忽ち斬って掛かろうとするところへ、近傍のものが取り巻き、手々(てんで)に棒などを持って打ち据えんとする故、彼は大いに狼狽し「人殺し、人殺し。」と云いつつ逃げんとするところへ、奉行が早馬にて駆けつけその場を鎮め、遂にご家老の挨拶にて事済になったことがある。
小使の左門は伯耆の郷士にて、備中の松山より師に随伴して、かの隠寮にいたのである。至って、風流を楽しむ男であったと申す事じゃ。
この時、師の名声はパッと城下に広がったもの故、藩中の人々は日々その隠寮に参聞(さんもん)し、武道仏道合わせて問答往復しておられた。ある日師の申さるゝよう「どうもこう雑談に紛れては面白くないから、別席を設け、改めて心の相見(しょうけん)を致してはどうでござりますな。」と。藩士等は異口同音に「其れは実に我々の希望でござります。」と答うる故、「然らば明日出直して来(きた)られよ」とてその日は別れとなり、翌日刻限を差(たが)わず皆々やって来た。すると禅師は曲祿(きょくろく)により侍者侍香をして両脇に侍立せしめ、雲水僧三十五人ばかりを左右に立ち並ばせ小参(しょうさん・禅宗で、高僧が随時・随処で衆僧に対して説法すること。) を始められた。 釣語(ちょうご・禅寺で、高僧が説法を始めるに先立ち、大衆に向かって疑問があれば質問するようにうながし説くこと。釣語。索語。)に「この内、もし身命を惜しまずして、参禅学道せんとする鉄漢(てっかん)あらば、試みに心宝剣を持ち来たれ。汝等と相見せん。」と仰せられた。藩士等は何れも狼狽疑義して一言も答えをなすものがない。そこで禅師は倚子を下り、「汝等、平常言端語端を逞しうす。遮裏(しゃり)に至って?の如く龍の如くなるは何ぞや」と片端から蹴踏(しくとう)せられた。藩士等は別に怒りも発せず、只「有難し、有難し。」と云って合掌をなし、師が慈悲心の老婆徹悃(ろうばてっこん)なるを悟り、何れも心中の我慢(仏語。我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮ること。)を知り、心地快活なることを得たとある。それから一同隠寮に帰り、茶を煎じて親しく提撕(ていぜい・禅宗で、師が語録や公案などを講義して後進を導くこと。)せられ申さるゝよう「諸君。別に禅宗とて、奇特の事があるのではござらん。雨竹風声が皆禅を説きおるではござらぬか。」と。何れも此の一語に感服して、師の居士(こじ・在家の男子で、仏教に帰依した者。)となったとある。
師は、武芸の神妙に達しておらるゝ上に、また禅機(ぜんき・禅における無我の境地から出る働き。禅僧が修行者などに対するときの、独特の鋭い言葉または動作。)の深奥に造詣しておらるゝので、言わば「鬼に金棒」じゃ。故に武士等は武禅二つながらの門人となる。