墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第9 怪力
大力強力(だいりきごうりき)などと云うよりも、むしろ怪力というほうが、その当を得ていると思う。五人力や十人力の者は、間々(まま)無きにしもあらずと思えど、二百五十人力とは驚く外(ほか)はない。
  • 嘉永元年の頃、京都の有名な海屋先生というが中国を漫遊せられ、尾道在の済法寺に到られ、師に対面の折柄、かねて大力無双、及び書画の聞こえも高きことゆえ、どうぞ和尚の技量を拝見致したいものとの望みに任せ、早速、寺中(じちゅう)の竹藪に入り、生竹を引き抜き笹を払い、それを結んで手袢(たすき)となし、二百五十人の門弟を相手に剣術を試みられたけれど、少しも緩む色だにみえぬ。その妙術には、海屋先生も手を拍(う)って賞賛せられ、且つ書画俳句等の巧妙なるには驚かれたという。
  • 次に、又四人の相撲取りに船の艫縄(ともづな)を持たせ、それを和尚の腰に巻き締め、四人があらん限りの力を出して引っ張ったけれど、師は大盤石の如くにして、ビクともせられなんだという事じゃ。
  • また師の住山せられし済法寺の山の、半腹(さんぷく)にあるその山に、厚さ一尺五寸長さ六尺ばかりの石があった。それを人足が六人もかかって、寺の玄関脇に据えようとして、一生懸命の力を出しているところを和尚に見られ、「エロー、骨が折れるようじゃから、此方(おれ)据えてやろうとて、それを薦(こも)に巻き、ちょっと鉄瓶(てつびん)でもひっさげたようにして、なんの苦もなく玄関の前に運ばれたことがあるそうな。今もその石が寺にある。
  • 師が姫路公より二百石の扶持を頂戴せられしも、またその大力を賞賛せられての事である。それは如何なる理由かというに、和尚あるとき須磨の浜辺を通りかかられた。すると、姫路公の家老を始め諸役人が船遊びをしておられた。つい何気なく、歩行しておられたものであるから、その船の艫綱に蹴躓(けつまず)かれた。師は例の破れ衣を着ておられるもの故、誰であるかは知らぬが無礼じゃと思ったものとみえ「こらこら、おまえはどこの僧じゃ。」と咎めるから、師はこれに答えて「はい。愚僧は備後尾道済法寺の物外と申すものでござります。」と申された。「物外和尚といえば、予て大力の僧であるということを聞いておるが、貴僧が物外であるとなれば、試みにその力を見せてもらいたいものじゃ。」と短刀直入に切り込まれたから、師も間(かん)に髪(はつ)を容れず「左様ならば。」と、その躓いた千石船(米を千石程度積める船。1石=10立方尺=約180.39?)の艫綱をとり、なんの造作もなくブッツリとねじ切られた。所で役人は大いに驚き「成る程これは疑いもなく有名な物外に相違なし。」と疑いが晴れ、早速船中へ招き乗り組みの家老諸役人と対面せられ、それから御殿に往き両三日も逗留せられ、姫路公とも対面せられて、種々の法談があったようである。時に、公はその力を賞賛されるのみでなく、師の道力(仏道の力量)の懐の広さに感嘆し帰依せられ、遂に済法寺を以て祈願所と定められた。その後、毎年二百五十石ずつ祈祷料を納める事となり、師も亦(また)毎年一度は必ず御殿へ見参される事となったのである。
  • 嘉永元年3月の頃、九州から武者修行が済法寺に来たり。和尚に対面を致しお茶を呑んで茶話をなしつつ、その茶呑茶碗をつかみミリッと砕いた。すると、師もすかさず『此奴は力のあるのを自慢に無礼なことをしやがるな。』と、ご自分には三本の指にて三辺キリッと廻して、茶呑茶碗を微塵にしてみせられたので、如何に力自慢な武士でもそれには胆を潰し、話しも其処そこにして立ち退いたとある。どうも師の力はとても人力とは思われないようである。
  • ある時、備中岡田の藩士にて身の丈七尺(一尺=約30.3?)もある豪勇の一武士が済法寺に来たりて、師と互いに力くらべをしてみようとのことなる故、師は渠(かれ)の胆玉を取ってやろうと、寺の後山(うしろやま)から二十貫目(一貫=37.5?)余りもある餅つき臼に似た丸石をば小脇に抱き、数珠を繰りながら持ち帰られた。それを見た一武士は胆を冷やし、此はとても我が力の及ぶところではないと思ったものとみえ、只世間話に茶を濁して早々に帰り去ったことがある。まるで、こしらえた話しのような感じがするけれど実際である。
  • 済法寺の門を境内から見て左側に、高さ二尺余・巾三尺・長さ七尺程ある花岡石(みかげいし)の手水鉢がある。ある日、師が中庭で粗服を着て掃除をしておられると、一人の武者修行が訪ね着たり、武術で闘わんとするの意気込みにて「物外和尚は在宅でござるかな」と、師はすかさず「いや、只今不在でござる。」と答えたまま掃除を為しつつ、手水鉢の在るところに掃き至り、左の手を以て手水鉢の一角を捧げ、右の手を以てその下の塵芥(ごみちり)を払い、そうしてなんの造作もなく自由自在に動かしその位置を繕うておられた。
    武士はそれを見て心に驚きながら、師も中々意地が悪い。不在などと偽り彼を驚かしてやろうとの魂胆に相違ない。「どうも今見ておるに貴僧の力は実に非凡なものじゃが、一体貴僧は何ものでござるな。」と問いながら、問わせようとの策略じゃもの。「いや、拙僧は物外様の随身をしている者でございます。今に、和尚が帰山せられたならばお取り次ぎを致しましょう。」と答えられた。武士は益々驚いた様子にて「いや、どうも貴僧の大力には驚きました。何れまた出直して、和尚ご在寺の時に罷り出でましょうから、その由を通じておいて下さい。」とて、彼は襟を正しく立ち退いたことがある。彼はそれきりにて、再び来なかったという事じゃ。
    思うに弟子ですらあんな強力がある故、和尚はどれ程の者であるか知れない。迚もとても、寄っても付けないだろうと臆病を起こしたものとみえる。
  • 師が東海道を過(よ)ぎらるゝ時、二人の武士と共に旅館に宿泊せられた。すると、お客が大勢あって非常に繁忙を極め、番頭が士人(さむらい)を待遇する礼を欠いたものとみえ、その武士が大いに怒り、武士に対して無礼な振る舞いをするとて、非常に詰責しておる。番頭も色を失い平身低頭、さまざまに詞(ことば)を尽くして宥恕を乞へど、益々怒って許そうといわない。
    時に、師は隣室におられ、それを気の毒と思われたものとみえその場に出でて「只今、拙僧が隣室(となり)にて聞きおれば、番頭が無礼を致されたとのことで、ご立腹はごもっとものことでござりますが、何分にもお見かけの通りお客も大勢ありまして、思いながらも行き届かなかったのでございましょう。どうぞご勘弁なさってくださいまし。」と番頭に代わって過(あやま)られた。するとその武士はなおさらに怒り「何じゃこの僧は。よけいなお世話じゃ、黙れ…。汝(そち)の知ったことではない。」とさも恐ろしき剣幕。「それは甚だ恐れ入りましたが、たかが礼儀を知らぬ番頭のことでございますから、どうぞ罪を許してやって頂きとうございます。」「黙れといったら黙れ。其処を立ち退かねばまず其方(そのほう)から手討ちにするぞ。」と益々怒る。「いや、それは恐れ入りました。」と師はどこまでも平身低頭しておられる。「何、武士に対して無礼なことをいう。『恐れ入りました。』位では承知ならぬ。手討ちにするから覚悟しろ。」時に、師は笑って申されるに「僧は死人も同様なものでござる故、今尊公方の刀を汚すがごときは、敢えて辞せざる所でござる。されど、僧が死に就きますには、自(おのず)らその法がござりますから暫しの間ご猶予を願います。そうして、支度ができましたならば、お手討ちになさって下さいまし。」と。
    それから、師は忽ち法衣を着し、庭前にある五・六人も掛からなければ動かぬような巨大な石を、小児(こども)が玩具(おもちゃ)をもてあそぶが如く庭の真ん中に積み重ね、その上に結跏趺坐を為して口に称名を唱え乍らその武士を招き、「愚僧の臨終の式は斯くの通りでござる。早く手討ちにして下され。」と言いつつ、傍らにある尺余の石をその坐前に列(つら)ねられた。武士はその怪力に驚き、早々にしてその旅館を逃げ去ったという。
  • 師が江州(ごうしゅう:近江国・滋賀県)から京都へ帰られるとき、少々腹痛の気味があって歩行に困難でもあり日も早西山に傾いたから、急いで叡山越し(比叡山越し)をなそうとされる折柄、棒鼻(宿駅のはずれ)に客待ちをしている旅篤籠(かごや)を雇い、「己は少々腹痛で苦しいので、叡山越しにて早く京都の青蓮院(天台宗の京都五箇室門跡の一。粟田御所。)に往きたいと思うが何程(どれほど)で乗せてくれるか。」と申されたるに、駕籠舁(かごか)きの申すに「何、御僧の事で御腹痛の事なれば、賃銭は思し召しでよろしうございますから早くお乗りなされ。」いうて、師は聊(いささ)かの小包一つを持ち駕籠に乗り込み道を急がせて山の麓を登り、やや東山の裏手に出ずる頃に至りたれば、最早日が暮れてしまったけれど、月夜であったから日は暮れても歩行に困難なこともない。時に、また下痢をもよおすから、駕籠から出でて路傍において便を通じ終わり、また駕籠に乗ろうとされるに、駕籠舁き何を思いしものか、最前の辞(ことば)に反して申しけるよう「和尚様、この峠を越しまして日もこの通り暮れまして歩行も困難のことでありますから、安い賃銭では割に合いませぬ。その衣服も脱ぎ、その包み物も我らに渡して下さい。」と忽ち剽盗(おいはぎ)に化けた。すると師は、大いに怒り、「何を小癪なことをぬかす。」と言いざま、その駕籠棒を取り一人は押さえつけ、一人はその棒で横打ちにすると、飛んで数十丈(一丈=3.03m)もある谷中に墜落してしまった。すると、残る一人は大いに恐れ過(あやま)り「誠に料簡違いのことを申しまして済みませぬ。どうぞ助けて下され。」というから、「過ちを改めるならば、助けて遣わす。」と許され、駕籠は一人では舁かれないから師はその駕籠舁きに小包を持たせ、優々自若として京都に到着せられたことがある。
    ・・・・・・これは、怪力としては驚く程のことではないけれど、その豪勇なるには驚かざるを得ない。・・・・・・
  • 伊賀国上野(三重県北西部)の藤堂泉守(とうどういずみのかみ)の家来に、柔術の師として頗る大力を誇っていた者が、師に怪力ありということを聞き、某は師の歳(とし)が七十歳ばかりになることを知り、如何に怪力があればとて最早七十の老僧、たかが知れておる。なんぞ、恐るゝに足らん。一度、その力を試してやろうとの慢心より師の寓舎(仮の住まい)を訪い面会を求めた。
    時に師はこれを客間に容れ丁寧に来意を問われた。すると某の申すに「いや、拙者は柔術の師範をしておる者でござるが、この頃ある人より貴僧に怪力を聞きましたけれど、それは容易に信ずることが出来ませぬ。もし、その怪力を有せらるゝならば、その充分なる腕力を拝見致したいと存じて参ったのでござる。」と木葉天狗(このはてんぐ)の本性が鼻先にぶら下がっておる。師は疾(と)くに、渠(かれ)が慢心に誇りおるを看破し、心の内にはおかしく思われ、少し笑みを含んで申されるに「いや、もうお見かけの通り老耄(おいぼ)れて、とても腕力など思いも寄らぬ事、どうして尊公の意を満たすことができようぞ。もとより、僧侶のことで忍辱柔和(にんにくにゅうわ)を本と致さねばならぬはずのもの。聊(いささ)か、自得の術を以て、暴行を防ごうとするまでのことでござる。」と。時に某はその術を試験してみようと思うにより、直ちに切り込み「然らばその術とは如何なる事でござるか。」と言えば、師その時、左腰の帯より紫檀製の扇形をなせる、長さ一尺余・厚さ七分(一分=約3.03?)ばかりの物を出し、左の手にその柄を握り、某の目前に突き出し「護身の具というは、これだけのもので外(ほか)には何物も持ちませぬ。」と申された。某はそれを冷笑してその木扇を押さえ「へい。僧侶の武術というものは、甚だ迂遠なものでござりますねい。」と漫言を吐いたから、師はこの時なりとて乃ち右の手を以て渠(かれ)の腕の上を握り、うんと強力を以て引き締められたものゆえ、某はたまらない。大いに苦痛を訴えて其処に倒れてしまった。けれど、師はやはり握ったまゝ誡めて申さるゝよう「壮年の武士は礼を知らず、妄りに老人を弄ばんとするからの事よ。以後は、心を改めて礼を正うし、仮にも漫言を吐かぬようせられよ。」とて、その手を緩めて放ちやられた。されど、その痛みはなお甚だしく大いに腫れあがり、ややもすれば脱疽にならんかと憂い、官に請うてその故国に帰ったという事じゃ。
    師は敢えて態(わざ)と渠(かれ)を害せようとせられたのではない。やむなくその傲慢を誡められたまでのことで、某は自ら招いたので誰を恨みようもない。師は七十歳の高齢ですら、其の通りであるから、壮年血気の時は果たしてどうであったろう。
  • 【新撰組の今弁慶】
    京都に新撰組というがあって、その長が近藤勇と申す者。部下は二百余名もあった様子。当時の守護職なる会津に陪従して輦下(れんか)における暴慢の士を防いでいたのである。しかも、その徒は皆諸藩の脱徒にして殊(こと)に有力ある者を、伍長に任じていた様子。さてその途中に『今弁慶』と称する者があった。その身躯(みがら)も随分と大きにして、膂力(りょりょく;腕力)は絶倫と称す。常に鉄の棒十五貫目(一貫=3.75?)ばかりもある物を牽いてその大力を示していたそうである。
    然るにある日、師は誓願寺寺中の歯医者に往き入れ歯を命じておられた。その時、かの今弁慶がその玄関に来たり、どうぞ歯茎より瀉血(しゃけつ)して貰いたいとて室に入り、傲慢にも師の膝前を跨(また)いでその上座に胡座いたした。時に入れ歯師が申すに、「檀那の大力は世人の皆畏れる所でござりまするけれども、武芸となりましてはその師匠がなくてはならぬ事と存じますが、失礼ながらその辺は如何でござりまするか。」と問うたれば、其処に物外和尚がおらるゝとは夢さら知らず、渠は意気揚々として答えた。「我が師は、備後尾道の済法寺の僧、物外和尚である。師は大力の僧にて柔術に長じ鎖鎌の名人である。」と。その傍らにおられた師は心におかしく思い、妙なことを言うておる奴もあればある者じゃと。そのそばにあった錦絵の像を出して示されたれば、かの今弁慶これを観て申すに「この画中の人は、即ち物外禅師でござる。」という。
    時に師は、大喝一声し起立して渠の横面を打たれたれば、今弁慶は飛んでその庭前に倒れた。師はこれに告げて「済法寺の物外は此の方である。其の方は未だ此の方に一面識だもなき者ではないか。そうして、此の方の弟子だのとは、世人を詐(いつわ)るも程こそあれ。この暴漢め。」と叱咤せられた。すると、渠は吃驚仰天(びっくりぎょうてん)し、やや暫くして、その身の塵芥(ちりほこり)を払い、師の前に跪き平身低頭を以て其の罪を謝し、且つ申すよう「拙者が貴僧の弟子あると申したのは敢えて詐りではござらぬ。従来、久しくそのご高名を欣慕(きんぼう;非常に慕うこと)致しまして、三回までも寺門を叩きました。所が、あいにく毎度ご旅行の留守ばかりで面謁を得ることができなかったのでござります。されど、その寺門を叩きましたのは、何月の幾日(いくか)と何月の幾日(いくか)で、その度ごとにお寺の帳簿に記しておきましたはず。そうして、すでに三回拝門を致しまして以来、高僧の徒弟と申しておったのでござりまする程に、どうぞご宥恕の程を願います。」と折れてきた。素より仁愛深き師のこと故、笑って申さるゝよう「すでに『三顧の礼』あらば許して遣わす。依っては、其の方の携え来たった鉄の棒を持って来られよ。」と。渠は命に応じて師の座前置きたれば、師は之を執って、三つにへし折り放擲(ほうてき;投げ捨てること)して申さるゝよう「其の方は、力量は僅かにこの鉄棒を牽くに足のみ。是を以て世人を嘘喝したのである。以後は、きっとその行いを慎み、みだりに以て世人を瞞着(まんちゃく;ごまかすこと)せぬように致されよ。」と懇々説諭を加えられた。その後もしばしば洗斗町(ぼんとちょう;の京都市中京区四条洗斗町。)の旅館において誡められたそうである。この今弁慶、後に銃殺されたということじゃが、どうも師に逢(お)うては如何なる者でも降伏(ごうぶく;仏法の力によって敵を防ぎ抑えること。「こうふく」と読めば別意。)せずにはおられぬ。
  • 備後尾道の着船場に米俵が十五・六俵も積み重ねてあった。それを大勢で運ぼうとしているところへ師が通りかかり、どうも怪力があるものじゃから、そんなものに出くわすとやはり批評を入れてみたくなるのと見え「いや、どうもおまえ方は骨が折れるであろうな。」と申された。所が、その一言がちょっと耳障りになったものか、(なに。僧のくせによけいな口を利く。入らぬお世話じゃ。)と言わんばかりに「何じゃ坊さん。お前さんこの米俵が担げるか。」と言うから、師はこれに答え「いや、何もそうという訳どもなけれど。余り骨が折れそうじゃから、一寸あゝいったまでのことさ。」と軽く申された。すると「でも、己の担げる覚えがなければ、仮にも口の利けるはずはない。試みに一つ担いでみなされ。」と責めかけた。時に師の申さるゝに「いや、それは恐れ入ったが、試みに担いでみるだけのことならば嫌じゃ。その米俵を残らず己にくれるならば、一担ぎに担いでみせる。無駄な骨折りはまっぴら御免じゃぞ。」と申された。所が、大力の物外和尚であることを夢さら知らぬものじゃによって、へゝら笑いを為し「ふーん、それは面白い。無論この十六俵が一肩に担げたならば、お前さんに上げるとも、あげるとも。」とどんなことがあっても担げるものではないと思うておるものじゃから、無責任にもそんな公言を吐いたのである。師はなお「それでは、一肩に担いだならばくれるかい。」と念を押された所が、「それは無論のことじゃ。」と言うから、それではと港口に往(ゆ)いて船頭から大きな船の帆柱を借用し、八俵ずつの米を両方にくくりつけ、下駄履きのまゝ「どっこいしょ。」言いざま軽々と担いで往かれるから、膽を潰し「これは、問屋の米で自分達の物ではない。一俵たりとも担いで往かれては困る。まして、残らず持ち往かれたのではたまったものではない。人をみだりにあなどったは重々自分達の不調法であった。」と大いに狼狽し、泣き面になって手を合わせ「どうぞ和尚様勘弁して下さい。誠に失礼なことを申し上げまして済みません。それも、私どもの物ならばやむを得ませぬけれど、そうでござりませぬから持ち往かれては忽ちに困ります。どのようなお詫びも致しますから、それだけはどうぞ堪忍して下さいまし。」頻りに誤るから「いや、そうならば勘弁してやる。何もこれが欲しいというわけでなけれど、お前等が余りに公言を吐くから、担いで見せたまでのことじゃ。」とて、肩から下ろされた。時に申すに「全体、貴僧はどちらのお方でござりまするか」というから、「いや俺は、つい尾道の町外れの済法寺におる物外という者じゃ。」と申された。すると、ますます平身低頭し「誠に不調法なことを申し上げまして、相済みませぬ。この上は如何なるお詫びも致しますが、どのように致しましたならば、勘弁して頂けるのでござりましょうか。」というから、師は笑いながら「なーに、詫びも糸瓜も入ったものではないが、まあ、盆正(お盆と正月)の礼儀ぐらいには来たがよかろう。」と申されたので、その後は師の生涯、盆正の礼儀を欠いたことはなかったとのことである。二百五十人力もあろうという大力無双の師じゃもの、米の十六俵ぐらいは平気なものじゃ。
    しかし、米俵にも色々があって、三斗俵・四斗俵・五斗俵とある。関西における、今時の俵は三斗一升であるが、維新以前は三斗三升三合入りであったから、一俵の目方が十四貫位はあったろう。それを、十六じゃもの二百二十貫目以上じゃ。それを、軽々と担がれたのであるから、怪力といわねばならぬ。
  • 師はある時、一人の弟子を従えて徒歩にて大阪に往かるゝ折柄、播州舞子ヶ浜(神戸市垂水区の明石海峡に面する海岸)を通りかかられた。三・四月の頃で歩行に愉快なときであるから、浜辺に出て景色を眺めておられた。すると、尾道の荷船が米を満載して順風に帆をかけてやって来たのを見らるゝと、船子二人の外に十人ばかりのお客も乗っておるようであるから、和尚大声にて「オイオイ、お前達は尾道の船ではないか。俺は済法寺の物外じゃ。大阪に行くのならば、ついでに乗せてくれないか。」と呼ばれた。
    すると船子が「でも順風に船をやっておるものを、無益に時を費やすということはできませぬ。何れ、天保山(てんぽうざん;大阪市港区の安治川河口の小丘)に着きますから、貴僧は緩々(ゆるゆる)と後からお登りなさい。」と嘲るようなことを言うから、師は笑いつゝ「其の方は、俺の言うことを聴かなければ船を向こうへやらないぞ。」と言いざま、尻を引からげ股の所まで捲り、その船首を執って、『グイッ!』と沙上に引き上げ、『ヅヅッ!』と松根の所まで引きづり上げて「さぁさぁ、こうしておくから大潮を待って緩々(ゆるゆる)上阪いたされよ。」と言って立ち去らるゝから、船子と客人とは真っ青になり、何れも皆、平身低頭して申すよう「どうもご無礼なことを申し上げまして何とも恐れ入りました。どうか、お許し願います。」と言うを聞き、「それならば。」と言って、またその船を『ヅンヅン!』と海中に押し出し、ご自分も弟子も共に船中に乗り込まれたことがある。時に船子もお客も皆驚いて師の大力を賞嘆したれば、師は大いに笑われたまでのことであったそうである。
  • 因州因幡(鳥取県東部)の藩士、小林南越というものが、播州の三日月(兵庫県佐用郡佐用町三日月)に近き山中を通りかけた時、年輩もはや四十にも近い婦人が八つか九つでもあろうかという可愛らしい女児を連れ、山中を通行する折から那辺(あなた)より大きな野猿が駈け来たり「キーキー。」と牙をならして、その婦人と女児との前後左右を取り囲み数匹の猿が襲いかかろうとする。母親は大いに心配し女児は恐れて泣き出す。進退ここにきわまって、母親は思わず知らず悲鳴を揚げて「誰ぞ、助けて下さい。」と叫ぶ哀れの声は松柏に応えて遙か向こうに聞こえた。それが、小林南越の耳に入り走り往いてみれば、如何にも気の毒そうである。そこで、南越も思わず同情を表し婦人と共に石を拾うて袂に入るれば、猿もその真似をして石を拾うて袂に入るれど、猿には袂がないから仕方がない。それから南越は拾うた小石を野猿に投げつけたれば、過(あやま)たず『ピシャッ!』と頭蓋骨に当たったので、今にも飛びつこうとする勢い。其処へちょうど物外和尚が通りかゝり申さるゝよう「これ、御武家殿。そんなことではらちがあきませぬ。愚僧が少し加勢致しましょう。」とて、その飛びかかる野猿を捕らえ拳を固めて「ヤッ!」と一声かけて拳骨を入れられたれば、そのまま倒れてしまった。そして、数匹の野猿をば見る間に退治してしまわれた。
    南越も師の怪力に驚き、非常に敬服して、その住所姓名を問い互いに名乗り合って、久しく道連れになられたと申すことじゃ。さて、また二人のために助けられた婦人は、藤井又十郎と申す郷士の妻お松というもの。両名同道にて藤井の宅まで見送られたので、藤井は非常に喜び且つ優遇したとある。
  • 前記、小林南越と同道して播州路を通行せらるゝ折から、出野宿(いでのしゅく)に通りかかられた。其処に一寸した飲食店があるので、師は小林に向かい「どうでござる、腰掛けて一杯やっては。」 小林「いや。ご同感でござる。」 物外「では、亭主。一寸したものでよいから一杯つけて下さらんか。」亭主「へいへい。承知仕りました。まぁ、どうぞお上がり下さいまし。」と。そこで、二人は店頭に腰をかけ、一杯やらかしておられた。すると、戸外に騒々しい人声がした。「やれ、騒動じゃ。」「そりゃ、行け。」と頻りに騒ぎ立てるものじゃから、和尚は『ジッ。』と戸外を眺め「亭主。エロー騒がしいようじゃ。あれは何じゃ。」と尋ねらるゝ故、「左様でございますねい。一寸見て参りましょう。」とて、十分ばかりもして帰ってきたり。亭主「いや、ご出家様。別に何もどうこうはございませぬ。この先に北条と申すところがございます。其処に、『愚痴の多吉』という馬子(馬で人や荷物を運ぶのを職業とした人)がおります。こやつが酒を飲みますとどうも手に合わないのです。誠に愚痴な奴でありまして、己が引いておりまする馬に荷物が着いておりませんと、往来人が携えております荷物を無理無証に、『やれ、つがせろ。』『それ、つがせてくれ。』とて、種々雑多なことを申し、お客がそれを聞かないと、終いの果てには泣き出しまして、愚図ぐず申しますもんですから、誰しも『多吉』と聞きましては、怖がらぬ者とてはござりませぬ。そこで皆が、愚痴の多吉と名をつけました。それは、どうも誠にうるさい馬子でございます。」「今も、どこの御内儀(おかみ)さんかは存じませぬが、只一人で少々の荷物を携え、それもほんの僅かな手風呂敷で別に馬に付ける程の物ではございません。それを『是非ともつがせてくれ。』とて、例の愚痴を申しておるのです。御内儀(おかみ)さんのことで、殊によほど金目のものとみえまして、『これはどうあっても私が持って行くから馬に付けて貰わなくてもよい。それほどお前が馬に付けたいのならば何程か駄賃を上げるから、それでどうぞ勘弁して貰いたい。』と、酒代として少々の銭を出して頼みますけれど、何分『愚痴の多吉』ですから、どうしても聞き入れません。側の人は気の毒がって仲裁ををしておる様子なれど諾きません。そこで、御内儀(おかみ)さんは泣き顔をして途方に暮れておられる様子であります。それを、また野次馬は面白そうに見物に出かけますので、それで戸外は騒がしいのです。」物外「うーむ。そうか、不埒な奴じゃ。嫌がる者を無理にとは…。するとまぁ、何でもつがせてさえやれば得心するのじゃな。」「これ、亭主あそこにある角石は、何にするのでござるな。」 亭主「ご出家様、あれは氏神様の鳥居の根石致しましょうとてとりよせましたのですが、何分にも少し格好が悪いというので、あのまま手前のうらへほうりこんだなり、未だにああやってあるのです。」 物外「なるほど。して、目方はどの位あるな。」 亭主「はい。たしか、一個(ひとつ)が四十三貫とか四貫とか。片方が、四十貫とか申しておりました。」 物外「では、亭主あれを一寸貸してくれないか。」 亭主「へい。それはどうなさるのですか。」 物外「いや。まぁ、俺の考えがある。そうして、お前の處には、酒筵(さかむしろ)の古いのはないかな。」 亭主「へいへい。ないことはありません。」 物外「では、その酒筵(さかむしろ)を貸してくださらんか。」 亭主「はい。それは易いことでございますが。ご出家様、どうあそばす心算(つもり)ですか。」 物外「まぁ、何でもいい。其処にある小倉の帯、もし損じたならば、愚僧が償うから二筋とも貸して下さいな。」と。やがて、筵と帯とを携えてその角石の所に往き、二つの角石をば筵に包み、その帯にて縦横十文字に掛け、一つ結んで両方の帯の端を繋ぎ合わせ、二個の大石をば「ウン!」と力を入れまま肩へひらりと引っかけられた。
    亭主はあまりのことに、呆れて物をも言わず、あれあれと見ておるうち、和尚はのこのこと戸外に出で、北条の方をさして駈け行かれる。して、出野宿(いでのしゅく)の中程なる北条辺へ参られると、案の定、大勢の人が「ワイワイ。」と立ち騒いでおる。師はその中を、「御免。ごめん。」と声を掛けて人の中をわけ、馬子の近傍(ほとり)に近寄った。 物外「これこれ、馬子どんよ。嫌がる御内儀(おかみ)に荷物を無理に付けて行こうよりも、頼むこの荷物を…。賃銭はお前の入るだけ、何程でも出す。どうぞ、載せて下され。」と言われて馬子は大いに喜び「もーし、御内儀(おかみ)さん。代わりができたから、お前さんの荷物はつがしてもらわいでもようございます。」「じゃぁ、ご出家さん。その荷物をつがして下さいまし。」 物外「あーあ、ご苦労じゃが加古川(兵庫県中南部を流れる川)まで頼む。」と、言いながら筵包みを降ろして馬子に渡された。多吉は心得ましたと、帯を手に執り引っ提げて馬の背中に乗せようとした。所が、全く動きもしない。 多吉「こりゃ、またどうじゃご出家様のこの品は…。」 物外「『この品は…。』って、愚僧がここまで担いで来たのじゃ。何も不思議な物ではない。其の方が引っ提げることができないならば、拙僧が馬の背中へ載せてやろう。」とて、石の包みを馬の背中に「ソリャ! ドッコイ!」と載せられた。所が、何ぞたまらん、馬は「ヒィーン…。」と一声叫びしまま前足を折って其の處へ倒れてしまった。 物外「これ、馬子どん。お前の馬は犬よりも弱いじゃないか。こんな駄馬を追い廻し『馬子よ。』『宿場の人足よ。』と、さも偉そうに。一人の愚僧が軽々と持ってきた荷物を背に載せれば、へたばってしまう。猫より弱い腐れ馬。荷物を積むの、載せるのと、小癪千万な。弱い御内儀(おかみ)を苛めたりなんぞして…。賃銭はかまわぬ。載せて貰いたい。」「さぁ、これ、馬子どん。」と責め上げられて、愚痴に多吉はいよいよ慄(ふる)えだし、何れ平素、人をいじめたから天狗でも懲らしめのため現れたのであろう。よもや、人沙汰ではあるまいと思うたものとみえ「どうぞご出家様、許して下され。」と満面さながら土の如くなり、多吉は其処にへたばり合掌低頭して誤る。群衆の者はいい気味と言わんばかりにうち笑い「そりゃ、多吉が泣き出した。笑うてやれよ。」と声々に手拍子を打って囃しておる。多吉は益々恐れ入り、只管(ひたすら)頭を下げて「以来は、酒を慎みます。」「愚痴も申しませぬ。」「無法なことは致しませぬ。」と念仏を唱えるように「どうぞ助けて下され。」と頻りに頼むゆえ、師もおかしく思われたものとみえ「左(さ)まで誤るならば、許してやる。以後は決して人をいじめてはならぬぞ。」とて、師はその包みを元の如く肩に掛け、重たそうな風もなく「これ、御内儀(おかみ)。愚僧と一緒にお出でなされ。こんな奴の相手にお成りなさるな。」と、その婦人を引き連れ元の飲食店へ引き返された。「やい、小林殿。馬子めが泣きおったわい。」 小林「もう和尚様、いい加減に粗暴なことはおやめさっしゃれ。」 物外「いや。どうも愚僧はこんな事が好きでならない。ハハハ…」
    それから師と南越とはその御内儀(おかみ)と同道して大阪に出られ、千駄木の豊後屋鶴吉方へ届けてやられた。夫鶴吉の喜びはいかばかりか…。
    ・・・・・・どうも師の怪力は、実に恐れ入ったことばかり。とても、人力とは思われないようである。・・・・・・
  • 【非似(にせ)物外降参の事】
    文久三癸亥(みずのとい;1863)の年、三月。師が京都に登り、加賀公・薩摩公・土佐公・尾張公・越前公等の諸大名に対面せられたことがある。その頃、寺町入ル橋の宅に遊びおられた所、備後の物外と名乗る者が十四・五人の供(とも)を召し連れ、京洛中の見廻りなりととて、金棒を牽かせ、威勢赫々(いせいかくかく)として通りかかり下座せよと威張るところへ、師がふと出会わせられ、不埒な奴じゃと思われたものとみえ、「これ、待て。」と声を掛けられた。すると、彼らの申すに「自分等を理不尽に差し止める其の方は、全体何ものである。此の方は、音に聞こえし、備後の物外である。」師はその語(ことば)を継ぎ「貴殿は備後物外であるかは知らねど、此の方は済法寺の物外である。有名な物外であると言うなれば、試みにお相手を申さん。世間は広けれど、我が日本に物外と称する者は、まさか二人とはあるまい。」と。師は非常なる憤怒の体(てい)にて、その金棒を取りたくり、彼らの目前にて三つに撓(たわ)められた。すると彼らは平身低頭し、とにかくお宿許(やどもと)へお供仕るとて、寺町より師に従い東本願寺を訪ね、上座敷に通され種々のお詫びを申して師の門人となり、種々の饗応(食事などのもてなし)を為したと言うことである。その者の本名は詳らかにならねど、山口県の人ということである。
  • 【師が二十六歳の春】
    二月中旬。京都より尾張(愛知県西部)に行き、それより東京駒込吉祥寺、これは『八尾屋お七』で以て有名なる曹洞宗の大寺で、その寺中に栴檀林というがある。これは同宗の学校で、徳川三百年来、諸大名の保護を以て建てられた学寮である。その中には、備前寮・薩摩寮・加賀寮・越後寮など幾棟もある。師は、その加賀寮に掛錫しておられたそうである。その夏のこと、芝区の近傍に辻斬りの曲者が横行するというを聞き込まれた。師は血気壮んな頃、「それは聞き捨てならん。」「懲らしめてやらねばならん。」といきまき、ある夜、微行(びこう;身をやつして密かに出歩くこと)して芝区に入り、此所彼処(ここかしこ)と散歩しておられた。すると、案の如く三人の曲者に出会われ、何か論判しておられたところ、「何、小癪な!」と言いざま敵方(あいかた)三人の者が師に向かって斬りかかった所で、師は「あっ!」と一声叫んで、彼の小手を取って擲(な)げつけられた。来る奴も来る奴も、小児(こども)を弄(ろう)するが如く、軽々と宙に堤(ひっさげ)て、振り回されたれば、曲者大いに恐れ四方八方へ逃走してしまったそうである。それからというものは、その辻斬りが出なくなったということである。
  • 【永平寺の大遠忌】
    嘉永五(1852)年は、越前永平寺開山道元禅師の六百回忌が営まれるので、末山(まつざん)の僧侶の多くは本山に拝登し、それぞれの役向きを務めた。師も上山されて、ご山内の都監役(とかんやく)をしておられた。即ち寺中の取り締まりである。
    時に、福井の藩士十六人の若者が、山法に禁じてあるものを、それを犯して中雀門(ちゅうじゃくもん;山門と仏殿の間の中間にある門で仏殿に対し特別な意味を持つ門。宮中の朱雀門より由来し、永平寺六十世臥雲禅師代の道元禅師600回大遠忌に新築された。それ以前の門は「教体楼」と称し、二重層で梵鐘が吊られていたと思われる。)より入り込もうとするから、「それはならぬ。この寺に来ては、寺の規則に依って参拝しなければならぬぞ。」と、丁寧にその理由(わけ)を示されたけれど、それを聞き入れないで、無理無性に入り込もうとするゆえ、師もこれを制するのが役目。道理で聞かぬものは、腕力に訴えねばならぬ。そこで師は、師は例の怪力を以て、「尊公等は不埒千万ではないか。」といきなり首筋をつかみ片端から門外へ投げ出された。彼等は師の強力に敵し難く、恨みを呑んで立ち退いたとある。
    それから、法要も済んで帰途、福井町を通り掛けられた時、右の若者等が待ち伏せをなし、手槍を持って師をさし殺さんとせしを、「何を、猪口才(ちょこざい;小賢しいこと)な奴めが!」とそのまま縄に掛け、奉行所へ連れて行き、「狼藉者、斯くかくの次第であるぞ。」と訴えられた所、奉行所よりは三人の役人を従わせて京都まで送らせたとある。
  • 【梵鐘の掛け降ろし】
    話が前後するが、序(ついで)であるから…。
    師が壮年の時、永平寺に掛搭(かた)しておられた。ある夜、戯れに鐘撞堂より梵鐘を降ろして、山門の外に置かれた。翌朝、衆僧(しゅそう)がこれを見つけて大いに驚き、一山の僧侶が総掛かりになって『ヤッサ。モッサ。』と鐘楼(しょうろう)につり上げようとて大騒ぎをなしておる。
    すると、これを見て「なんだ、尊公方は。山河大地を掌上(てのひら)に弄するも、またこれ納僧(のうそう;禅僧の称)の尋常茶飯(じんじょうさはん;日頃飲食している茶や飯の意より転じて、少しも珍しくないことのたとえ。)ではござらんか。それを何ぞや、僅かに梵鐘一つを吊るに、そんなに多く集まって騒ぐは納僧の分上ではないと思うが。」と言われたれば、衆僧等口をそろえて「尊公、あまり空見識(からけんしき)を吹かぬがよい。如何に納僧じゃとて、それとこれとは別の問題ではないか。」 物外「いや。そんな事を言い張るから駄目である。」 衆僧「そんならば、どうすればよいのである。」 物外「いや。其れはなんでもない事じゃ。もし、拙僧に茶飯(ちゃめし)を饗せらるるならば、拙僧が一人にて之を元の通りにつるします。」と。衆僧も、もとより師の腕力が尋常ではないと言う事は薄々知っておれど、まさかそれほどの力はあるまいと思いはすれど、ああ言うから任せてみようとて遂に、それならば、茶飯を炊くから吊して貰おうと、一同が手を引いた。
    時に師は、軽々提(ひっさ)げて、之を鐘楼堂にかけられた。仕方がないから、茶飯の饗応をなしたという事である。その後、とても屡々(しばしば)そんな事があったので、後(のち)には、「いや、また物外が茶飯を喫(くお)うとて戯れをする。」とて、みんなが大笑したそうである。
* 編者、曰(いわ)く、師の怪力談は以上の外(ほか)に、尚多かるべきも、今は旦(しばら)くその概略のみを記したのである。諸賢、これを諒(りょう)せよ。