墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第11 奇 跡

偉人と呼ばるゝものは必ず奇跡がある。奇跡は必ず偉人につきものである。奇跡をもって偉人そのものを信ずるというではなけれど、奇跡の偉人にあるは敢えて怪しむべきではない。寧(むし)ろ当然として之を許さねばならぬ。物外禅師は実に稀世の偉人である。その怪力その武芸すべてこれ奇々怪々である。金剛夜叉の化身とでも云うべきであろうか観音普門品(かんのんふもんぼん)に「執金剛神(しゅうこんごうしん)を以て得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて為に説法す。」とある。彼の金剛夜叉と云い、執金剛神といい密迹力士(みっしゃくりきし)と云い、仁王と云うのはみな同体異名である。之が寺の山門に祭ってあるのは仏法守護の為じゃ。師の怪力といい武術といい、到底人間業ではあるまいとと思わるゝのは、この力士が仏法守護のため仮に人間に化生(けしょう)せられたのかもしれない。左(さ)もなくて万人に勝るゝ業の出来よう筈がない。
師は斯(か)ほどの大力無双であるけれど、ついぞその力を乱用せられたことがない。只々傲慢無礼な族(やから)を懲らしめられたまでのことである。殊に僧宝(そうぼう)の衰えたる時、僧侶を見れば一も二もなく之を軽蔑する風習なるゆえ、師は殊更に破れ衣を着し他の慢心を縁として天下の至る所片端から驕慢(きょうまん)の衆生を折伏(しゃくふく)せられた。その功徳は仏法全体に及んでおるので、師は実に仏法の護法善神(ごほうぜんじん)である。師は内には忍辱柔和の慈悲心を蓄えておらるゝので仇(あだ)を以て仇に報ゆるというような害心がないから、ついぞ敵のために襲われさせられたことはない。適々あれど師を害するまでに至ったことはなかったのである。

 

怪しき女子に遇う
師がある時、京都より大阪に帰らるゝ途中、八幡の近辺より日は西山に沈み薄暗くなった頃、突然十七 八とも思しき嬋妍窈窕(せんけんようちょう)たる娘に出会われた。時に娘は師に声をかけ「モーシ、御出家様。私は八幡まで帰る者ですがあいにく日が暮れまして路(みち)が寂しゅうござります故、どうぞ御慈悲に道連れになって下さいまし。」というから、これは怪しいと思われたれど、彼が頼むからやむなく、「ヨシヨシ、連れて行ってあげよう。」とその手をしっかりと握り二・三丁も行きかかると、彼はその痛みに耐え兼ねたものか、「御出家様、どうぞ手を取り替えて下さい。」というからその意に任せらるゝと、突如その後より山も崩るゝほどの物音がすると同時に、その娘はフッと消えてしまい、師の手にあるものは只の鉄扇(てっせん)のみ。師はこの時左(さ)のみ驚きもせず「畜生め。悪戯をしやがったな。」と、師は悠然と大阪に着せられたことがある。
これは果たして、狐狸の悪戯であろうか。但(ただ)しは鬼神のためしであろうか。されど凡庸(なみなみ)の者なれば気絶でもしかねそうな場合であるが、悠々然として大阪に着せられしは、偉人の偉人たる所以である。何ものかは知らねど、師の力を以てしっかりと握られては堪るものではない。

大蛇を退治す
師ある時、尾道より伯耆(ほうき)へ通行せらるゝ時、伯耆の山間にて大きな(うわばみ)が道路に横たわって進むことが出来ぬゆえ、やむなく足を留め落ち葉をかき寄せて火を付けられたれば、たちまちの間にパッと広がり山火事となった。すると大蛇もいつの間にか逃げ失せて姿が見えなくなったから、まあよかったと早速無事に通行せられた。
それから翌年、再びその道を通って帰途に就かるゝ折から、路傍の茶店に休息して亭主に咄(はなし)を聞かるゝに「ヘイ、和尚様。アナタは昨年山火事を起こして、大蛇を退治なさったお方では御座りませぬか。」と、問わず物語を仕掛けるものじゃに依って、師「いかにも。亭主よく存じておるナァ。」「ハイ。実は和尚様、昨年までは、あの山へ始終大蛇が出まして、人を害する事というもの夥しい(おびただ・しい)もので御座りましたが、幸いアナタの御陰であれから出なくなりまして、村民も非常に喜んでおります。」と。師は別に退治するつもりはなかったけれど、思わず知らず退治せられたのは師の御徳と云わねばならぬ。

 

【語注】
観音普門品 かんのんふもんぼん 鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五』の経をさす。
執金剛神 しゅうこんごうしん 金剛手、持金剛とも称される、仏教の護法神・夜叉神である。
密迹力士 みっしゃくりきし 千手観音の眷属(けんぞく・従者。家来。配下の者。)である二十八部衆の中の仁王像の吽形像(うんぎょうぞう・口をつむいだ仏の姿)で「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)をさす。
化生 けしょう 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うために、人間の姿を借りてこの世に現れること。
僧宝 そうぼう 仏の代理者あるいは後継者として、仏の説かれた法を伝承・護持し、世に弘通していく方のこと。
驕慢 きょうまん うぬぼれる心、他人を見比べて自分のほうが優れていると高ぶる心。
折伏 しゃくふく 相手の悪や誤りを打破することによって、真実の教えに帰服させる教化法。
護法善神 ごほうぜんじん 仏法を守護する鬼神。梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・四天王・十二神将・十六善神・二十八部衆など。護法神。
嬋妍 せんけん 容姿のあでやかで美しいさま。
窈窕 ようちょう 美しくしとやかなさま。上品で奥ゆかしいさま。
鉄扇 てっせん 骨を鉄で作った扇。また、畳んだ扇の形を鉄で作ったもの。近世の武家の護身用。
伯耆 ほうき 旧国名の一。山陰道に属し、鳥取県の中西部にあたる。伯州。
うわばみ 巨大な蛇。大蛇。