墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第13 書画

▼どうも一事に達するもの万事に通ずるものと見え、師は書画の道まで達しておられた。師の生存中出版になった「皇都書画人名録(こうとしょがじんめいろく)」の中にも載せられてある位であるから、京洛中に於いても有名であったものと見える。

師が晩年粟田の宮様に寵愛せられ出入りせらるるようになったのは外でもないが鴻之池の次男武士之助なるものに半年ばかり柔術を指南しておられた。その折から同家にて粟田の宮様に面謁(めんえつ)せられ、それからしばしば出入りしてご懇意になられた。そこで武田相模之守(たけださがみのかみ)とは義兄弟の契(ちぎり)を結ばれたという。

右の次第にて鴻之池よりは国許(くにもと)への土産として準提観音(じゅんていかんのん)の尊像と茶呑ゴスとを贈られ、文久二年九月の頃、一応済法寺へ帰えらるるについてはわざわざ五十石の別船を与え、家来を伴(とも)につけて尾道まで送り届けたというありさま、師が如何(いか)に尊重せられたるかはこの一事においても知らるる事である。

夫れはともあれ、師が粟田御殿に出入りせられ、水乳(すいにゅう)もただならぬ交わりを結び折られたことは、当時そのご家老より済法寺に向けて送られた古き書状の数多(あまた)あるに徴(ちょう)しても明らかなる事実である。其れやこれやの関係にて師は文武館の大額面を勅定(ちょくてい)によって揮毫(きごう)せられたことがある。今その書状を見るに
















こういう訳で師の能書であったことは申すまでもなきことである。今日尚済法寺にも「白雲臺」といえる額がかかっているが、実に見事なものである。尚その筆跡を左に挿入して其の虚ならざるを証してみようか。




  (以下余白)