文芸には文芸の遺伝があり、武術には武術の系統があるので、茄子の蔓には瓜はならぬ。師が少年の時より何人(なんぴと)に就いて伝授せられたということもなく、誰それの門人ということもなしに、天禀(てんぴん)の秘術奥伝(ひじゅつおくでん)を得られたというものは、その由来する所がなくてはならぬ。今、古書によってこれを調べてみるに、師は実に武田信玄公九代の孫であるぞと申し伝えてある。それも、ただ漠然たることではなく、精細にその系統をただしてみれば実に左の通りである。
晴信(初代)後に信玄と称す
隆法(二代)
信直(三代)
信光(四代)
一信(五代)
信安(六代) 備前児島に住す
信高(七代)伊豫国松山領大三島に住す
信茂(八代)三木平太と言えり。初めて松山侯に仕う。
物外(信茂の嫡男)
出家して備後国御調郡栗原村曹洞宗済法寺に住す。不遷(ふせん)と号す。同寺の第九世にして、再中興(さいちゅうこう)なり。元治元【1864】年乙丑(きのとうし)の三月十七日、祖庵全之和尚(そあんぜんしおしょう)に譲りて隠棲(いんせい)す。
隆法(二代)
信直(三代)
信光(四代)
一信(五代)
信安(六代) 備前児島に住す
信高(七代)伊豫国松山領大三島に住す
信茂(八代)三木平太と言えり。初めて松山侯に仕う。
物外(信茂の嫡男)
出家して備後国御調郡栗原村曹洞宗済法寺に住す。不遷(ふせん)と号す。同寺の第九世にして、再中興(さいちゅうこう)なり。元治元【1864】年乙丑(きのとうし)の三月十七日、祖庵全之和尚(そあんぜんしおしょう)に譲りて隠棲(いんせい)す。
どうも詳しいことは解らぬが、大略はこんなものである。