墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第3 生誕
老師の生年月日はハッキリせぬけれど、慶応三【1867】年丁卯(ひのとう)の十一月二十五日七十三歳にて遷化(せんげ)せられたということは、その当時の書類にハッキリと書いてある。もし、慶応三年が七十三歳ならば、寛政七【1795】年丁卯(ひのとう)の生誕でなくてはならぬ。しかるに、また、天保元年済法寺へ住職せられんとする際、広島なる役所へ出願せられた書類によってみると、「今年(こんねん)三十七歳に罷成候(まかりなりそうろう)」とある。天保元年から三十七年前は正しく寛政六【1794】年の甲寅(きのえとら)にあたる。そうしてみると、七十四歳で遷化(せんげ)せられたものと定めねばならぬ。而(しこう)して、師は伊豫の松山に生誕せられたものにて、その父は「系統」にも示したとおり、松平隠岐(まつだいらおき)の守(かみ)の家臣三木平太の長男、母は同家中森田太兵衛の娘とある。自身の書面に自身のことを認められたのであるから間違いあるまいと思う。而(しか)して、幼名を吉二郎と申したそうである。