然るに、天保八【1837】年、同じく済法寺へ住職する事に関し、広島の役所へ差し出された書面の写しに依って見るに「拙僧(せっそう)は、生国伊予の国松山にて、父は松平隠岐守殿(まつだいらおきのかみどの)家臣、三木兵太夫(みきひょうだゆう)、母は同家中、森田太兵衛(もりたたへえ)の娘にて御座候處(ござそうろうところ)、去る午、天保五【1834】年の七月、死去つかまつり、父は存生(ぞんしょう)に罷り(まかり)あり候。拙僧義、出家懇望につき、同国禅宗龍泰寺、祖燈和尚(そとうおしょう)の弟子にまかり成り、剃髪(ていはつ)つかまつり、その後、当国同宗、中島(現広島市中区)伝福寺、観光和尚の嗣法(しほう)にて弟子にあいなり申したく段、お願い申し上げ候處、卯の三月、ご免許、御座候云々」とある。この文句より、考えてみるも、老師は六・七歳の時より四・五年の間は、龍泰寺、祖燈和尚の弟子になっておられたことは明らかである。すなわち、祖燈和尚は得度の師【剃髪の師匠とも、授業師(じゅごうし)とも、親教師(しんきょうし)ともいう。】にて、観光和尚は嗣法の本師である。
老師の後住なる全之和尚(ぜんしおしょう)、その弟子なる桂堂和尚(けいどうおしょう)等の口碑(こうひ)に伝わる所を聞くに、広島伝福寺の観光和尚があるとき、伊予の道後へ湯治に行かれ、龍泰寺に滞在せられたおりから、祖燈和尚の話に、
「摂寺には不遷(ふせん)という小僧を養成しつつありますが、いやはやどうも腕白者で、とても出家の見込みは無い様でござる。」と、申されたるに観光は、
「イヤ、拙僧はいかなる者でも、いったん寺院(てら)に来たら、なるべく帰俗はさせぬ考えでござる。もし、尊師がお困りとなれば、拙僧がつれて帰りましょう。」 それを聞いて祖燈は、
「では、尊師におまかせいたしますので、どうぞお連れになって下さいまし。」とて、遂に広島に連れて帰られ、和尚の弟子にせられたとのこと。観光和尚は、弟子を育てるのが上手で、嗣法の弟子が十人以上あったとのこと。これは、いかにも事実と思われる。
成る程、祖燈和尚の言われた通り、十歳前後はいずれの子どもも、腕白盛りであるが、この不遷は殊に塩が辛い。されど、仏経(経典)や祖典(祖録)を教えてみるに、塩の辛いだけありて、その覚えの善きこと尋常一様ではない。なかなか敏才な者で、一を聞けば十を知り、十を聞けば百を知るというので、あるいは困り、あるいは喜んでおられた。
不遷は諱(いみな)、物外はその号(ごう)である。
