墻外道人(しょうがいどうにん・高田道見) 編纂 
第4 出家
師の一代記ともいうべき「一大鏡」という書類がある。これは、弟子の木鈴和尚(もくれいおしょう)が壮年の頃、筆記せられたもの。その中には、七歳にて出家せられたといい、前記の一説は明治三十四【1901】年の秋、今の済法寺現住、三浦鐵禅(みうらてつぜん)和尚へ書面にて答えられたので、その中には、六歳にて出家せられたように申してある。して、また師が済法寺に住職せらるる時、役場に差し出された書類の写しに依って見ると、「二十七年以前、広島伝福寺、観光和尚(かんこうおしょう)の弟子に相成り候云々。」とある。これに依って見ると、十歳か十一歳の時、観光和尚の弟子になられたようである。なぜかというに、この書面は天保元【1830】年にしたためられたので、元年から27年前は文化元【1804】年にて、師が寅年の生まれならば十一歳、卯年の生まれとすれば十歳の時であるからのこと。
然るに、天保八【1837】年、同じく済法寺へ住職する事に関し、広島の役所へ差し出された書面の写しに依って見るに「拙僧(せっそう)は、生国伊予の国松山にて、父は松平隠岐守殿(まつだいらおきのかみどの)家臣、三木兵太夫(みきひょうだゆう)、母は同家中、森田太兵衛(もりたたへえ)の娘にて御座候處(ござそうろうところ)、去る午、天保五【1834】年の七月、死去つかまつり、父は存生(ぞんしょう)に罷り(まかり)あり候。拙僧義、出家懇望につき、同国禅宗龍泰寺、祖燈和尚(そとうおしょう)の弟子にまかり成り、剃髪(ていはつ)つかまつり、その後、当国同宗、中島(現広島市中区)伝福寺、観光和尚の嗣法(しほう)にて弟子にあいなり申したく段、お願い申し上げ候處、卯の三月、ご免許、御座候云々」とある。この文句より、考えてみるも、老師は六・七歳の時より四・五年の間は、龍泰寺、祖燈和尚の弟子になっておられたことは明らかである。すなわち、祖燈和尚は得度の師【剃髪の師匠とも、授業師(じゅごうし)とも、親教師(しんきょうし)ともいう。】にて、観光和尚は嗣法の本師である。
老師の後住なる全之和尚(ぜんしおしょう)、その弟子なる桂堂和尚(けいどうおしょう)等の口碑(こうひ)に伝わる所を聞くに、広島伝福寺の観光和尚があるとき、伊予の道後へ湯治に行かれ、龍泰寺に滞在せられたおりから、祖燈和尚の話に、
「摂寺には不遷(ふせん)という小僧を養成しつつありますが、いやはやどうも腕白者で、とても出家の見込みは無い様でござる。」と、申されたるに観光は、
「イヤ、拙僧はいかなる者でも、いったん寺院(てら)に来たら、なるべく帰俗はさせぬ考えでござる。もし、尊師がお困りとなれば、拙僧がつれて帰りましょう。」 それを聞いて祖燈は、
「では、尊師におまかせいたしますので、どうぞお連れになって下さいまし。」とて、遂に広島に連れて帰られ、和尚の弟子にせられたとのこと。観光和尚は、弟子を育てるのが上手で、嗣法の弟子が十人以上あったとのこと。これは、いかにも事実と思われる。
成る程、祖燈和尚の言われた通り、十歳前後はいずれの子どもも、腕白盛りであるが、この不遷は殊に塩が辛い。されど、仏経(経典)や祖典(祖録)を教えてみるに、塩の辛いだけありて、その覚えの善きこと尋常一様ではない。なかなか敏才な者で、一を聞けば十を知り、十を聞けば百を知るというので、あるいは困り、あるいは喜んでおられた。
不遷は諱(いみな)、物外はその号(ごう)である。


【語注】
剃髪 ていはつ 髪を剃り落として仏門に入ること。
中島 なかしま 現 広島県広島市中区
嗣法 しほう 禅宗で弟子が師の法を受け継ぐこと。
得度 とくど 仏門に入り、修行僧になること。
口碑 こうひ 言い伝え。伝説「口碑に残る。」
摂寺 せつじ 僧侶が、自分が住 している寺のことを、へりくだって言う語。
出家 しゅっけ 家庭などとの関係を切り、世俗を離れ、戒を受けて僧になること。
拙僧 せっそう 僧侶が自分のことをへりくだっていう語。
塩が辛い しおがからい 知恵をよく働かせて 、活発に動き回りいたずらや悪さをする・こと(さま)
仏経 ぶっきょう 仏教の経典・経文。
祖典 そてん 禅宗の高僧が著した語録。