師が文武両道に達せられたのは、もはや天禀(てんぴん)と言ってもよいくらいであるが、もはや十二才の頃より武道を志し、毎夜の如く観光和尚の目を忍び、市中のある道場に往いて剣術の稽古をなし、又は儒者先生の学塾に通って、しきりに学問の稽古をしておられたそうである。かくて、昼間は師僧について、仏経祖典の教授をうけ、夜間は文武の二道を兼学せられたので、その上達は、さながら雨後の筍の伸びがある様であるから、師僧も兄弟弟子も皆舌を巻いていたとのこと。さすがは、利発なだけあって、早くも仏経祖典の教授をうくるばかりでは、画餅(がへい)の餓えに充たぬ様なものというところに気がつき、十三歳の冬からは、師僧のもとを辞し、国泰寺の僧堂に入りて、孜々翼々(ししよくよく)と坐禅を修せられたとある。
師、十五歳の春、三月の中旬頃。茶臼山において子ども合戦を開始せんせられ、ことならずして差し止められたことがある。其はどんな事柄であるかというに、広島は城下のことであるから、ある家中の手習い子どもと、町人の手習い子どもとが、路傍(ろぼう)にて口論を始めた。このとき師は町人の仲間に入り、武士の子どもに侮辱の言葉を与えたので、非常に憤激し、いざ勝負に及ぼうとなった。所で、師の方でも素(もと)より胸算(きょうさん)のあることなれば、みだりに言葉を発しない。同じ勝負をするほどならば、本式にやろうとて、それならば、日を期して茶臼山においてやろうと契約し、その場をそれで分かれとなった。さて、子どもとはいいながら、十五歳より十八歳以下の者であるから侮る(あなどる)ことはできない。それぞれ、連判張をこしらえて連判を取ったのである。
さて、それから町人の子どもらは鍛冶屋へ槍を誂(あつら)えるやら、太刀の才覚をするやら、なかなかの騒ぎ。そうして、何れも親々に暇乞い(いとまごい)をするから、「何事ぞ。」と尋ねたところが、「斯々(かくかく)の次第にて、決戦のため茶臼山へ、出陣するのでござる。」と言ったので、親々は大いに心痛し、それは何にしても大変なことが始まったと、役場へその旨を届け出た。所が、役場でも非常に驚き、それは聞き捨てならぬとて、役人が国泰寺に行き役僧と談判中、師は早くも秘密が漏れたことを悟り、座辺(ざへん)にあった連判張を手洗い場へ持ちゆき、線香に火を付けて焼き払い、知らぬ振りに澄まし込んでいた。所が、役人は不遷小僧に向かい申すに、「明朝は早々、役所へ出頭せられよ。」と告げたので、師は翌日早朝に役所に出頭せられた。
これより先のことの、発覚したるより、役人は茶臼山の陣立てを検分した所、地雷火(じらいか)等を始め、その他いかにも巧みなことが仕掛けてあったそうで、ひとたび知らずにその伏線内に入ろうなら、みすみす皆殺しにされるのである。
お上もよほど驚いたものとみえ、役人が不遷小僧に向かい、「その方は、子どもにも似合わぬ。どうして、あんな陣立てを巧んだのであるか。」の問いに、師はこれに答え、「はい。あれは太閤記実録を読んで、工夫致したのでござります。」と申されたそうである。諸役人もそれには大いに肝玉を奪われて怖じ気がさしたものと見え、あんなものを城下においては危険であるとの慮り(おもんばかり)から、国泰寺の住職に向かい、行脚を勧めて、国外に出すようにと注進せられ、伝福寺の観光和尚よりは、勘当を申しつけられたので、師も仕方なしに上方をさして旅立たれたとある。わずか十五歳にして、かほどのことをせられたのであるから、怖がるるも道理である。
師は、十六歳の春正月より、大阪にて借家をなし、托鉢修行をして、儒学を研究せられ、十九歳の冬まで、ミッシリと勉強されたそうである。
文化九年【1812】の十二月中旬より、武者修行の姿となって両三年の間、諸国を遍歴せられたようであるが、この間において、十分に武芸の稽古ができたものと思われる。文化十三年【1816】は、師が二十三歳の頃である。この時、遠州の府中宿(ふちゅうじゅく)と申すところに住庵(じゅうあん)して、仏学を修めておられたと申すことである。その時、龍泉寺というに、江湖会(ごうこえ)及び授戒会(じゅかいえ)があった。師がたまたまそれへ参詣してみられたところが、雲水僧の盛んなる問答がある。その時、師はヒョッと群衆の中から、黒染めの直綴(ころも)に袈裟を掛けて、問答にでられた。その時の、助化師(じょけし)すなわち西堂和尚(せいどうおしょう)は山城(やましろ)宇治の興聖寺、磨甎(ません)とて、有名なる大和尚である。問答が終わって、西堂寮に至り親切に茶話(さわ)せられ、なお、師が広島国泰寺におられたというので一層親しくなり、それより興聖寺に掛錫(かしゃく)をして三ヶ年も綿々密々(めんめんみつみみつ)に弁道(べんどう)せられたのである。師は、何事につけても他人の背後に立たぬ力量(りきりょう)があるから、とかく人を慢ずる心もあったものと見え、磨甎和尚(ませんおしょう)は、深くその病根を診察し、教訓せられたので、師は大いに省(せい)する所があり、恰も雲霧の晴れ渡った如く、胸中の爽快なることを得られたとある。
文政二年【1819】は、師の歳が二十六歳。この春二月の中旬、興聖寺を辞して、京都に出(い)でてしばし留錫(りゅうしゃく)をなし、また尾州あたりに錫(しゃく)を留(とど)められたこともある。その後、東京駒込吉祥寺山内、栴檀林(せんだんりん)の加賀寮に掛錫(かしゃく)しておられたそうである。この、加賀寮で三年の間、師は熱心に勉強せられたので、この時の逸話は別項において語るつもり。
師は、文政四年の冬、周防(すおう)の瑠璃光寺にて立職(りっしょく)。この時、寅年の生まれとすれば、二十七。卯年の生まれとすれば、二十八。
師、十五歳の春、三月の中旬頃。茶臼山において子ども合戦を開始せんせられ、ことならずして差し止められたことがある。其はどんな事柄であるかというに、広島は城下のことであるから、ある家中の手習い子どもと、町人の手習い子どもとが、路傍(ろぼう)にて口論を始めた。このとき師は町人の仲間に入り、武士の子どもに侮辱の言葉を与えたので、非常に憤激し、いざ勝負に及ぼうとなった。所で、師の方でも素(もと)より胸算(きょうさん)のあることなれば、みだりに言葉を発しない。同じ勝負をするほどならば、本式にやろうとて、それならば、日を期して茶臼山においてやろうと契約し、その場をそれで分かれとなった。さて、子どもとはいいながら、十五歳より十八歳以下の者であるから侮る(あなどる)ことはできない。それぞれ、連判張をこしらえて連判を取ったのである。
さて、それから町人の子どもらは鍛冶屋へ槍を誂(あつら)えるやら、太刀の才覚をするやら、なかなかの騒ぎ。そうして、何れも親々に暇乞い(いとまごい)をするから、「何事ぞ。」と尋ねたところが、「斯々(かくかく)の次第にて、決戦のため茶臼山へ、出陣するのでござる。」と言ったので、親々は大いに心痛し、それは何にしても大変なことが始まったと、役場へその旨を届け出た。所が、役場でも非常に驚き、それは聞き捨てならぬとて、役人が国泰寺に行き役僧と談判中、師は早くも秘密が漏れたことを悟り、座辺(ざへん)にあった連判張を手洗い場へ持ちゆき、線香に火を付けて焼き払い、知らぬ振りに澄まし込んでいた。所が、役人は不遷小僧に向かい申すに、「明朝は早々、役所へ出頭せられよ。」と告げたので、師は翌日早朝に役所に出頭せられた。
これより先のことの、発覚したるより、役人は茶臼山の陣立てを検分した所、地雷火(じらいか)等を始め、その他いかにも巧みなことが仕掛けてあったそうで、ひとたび知らずにその伏線内に入ろうなら、みすみす皆殺しにされるのである。
お上もよほど驚いたものとみえ、役人が不遷小僧に向かい、「その方は、子どもにも似合わぬ。どうして、あんな陣立てを巧んだのであるか。」の問いに、師はこれに答え、「はい。あれは太閤記実録を読んで、工夫致したのでござります。」と申されたそうである。諸役人もそれには大いに肝玉を奪われて怖じ気がさしたものと見え、あんなものを城下においては危険であるとの慮り(おもんばかり)から、国泰寺の住職に向かい、行脚を勧めて、国外に出すようにと注進せられ、伝福寺の観光和尚よりは、勘当を申しつけられたので、師も仕方なしに上方をさして旅立たれたとある。わずか十五歳にして、かほどのことをせられたのであるから、怖がるるも道理である。
師は、十六歳の春正月より、大阪にて借家をなし、托鉢修行をして、儒学を研究せられ、十九歳の冬まで、ミッシリと勉強されたそうである。
文化九年【1812】の十二月中旬より、武者修行の姿となって両三年の間、諸国を遍歴せられたようであるが、この間において、十分に武芸の稽古ができたものと思われる。文化十三年【1816】は、師が二十三歳の頃である。この時、遠州の府中宿(ふちゅうじゅく)と申すところに住庵(じゅうあん)して、仏学を修めておられたと申すことである。その時、龍泉寺というに、江湖会(ごうこえ)及び授戒会(じゅかいえ)があった。師がたまたまそれへ参詣してみられたところが、雲水僧の盛んなる問答がある。その時、師はヒョッと群衆の中から、黒染めの直綴(ころも)に袈裟を掛けて、問答にでられた。その時の、助化師(じょけし)すなわち西堂和尚(せいどうおしょう)は山城(やましろ)宇治の興聖寺、磨甎(ません)とて、有名なる大和尚である。問答が終わって、西堂寮に至り親切に茶話(さわ)せられ、なお、師が広島国泰寺におられたというので一層親しくなり、それより興聖寺に掛錫(かしゃく)をして三ヶ年も綿々密々(めんめんみつみみつ)に弁道(べんどう)せられたのである。師は、何事につけても他人の背後に立たぬ力量(りきりょう)があるから、とかく人を慢ずる心もあったものと見え、磨甎和尚(ませんおしょう)は、深くその病根を診察し、教訓せられたので、師は大いに省(せい)する所があり、恰も雲霧の晴れ渡った如く、胸中の爽快なることを得られたとある。
文政二年【1819】は、師の歳が二十六歳。この春二月の中旬、興聖寺を辞して、京都に出(い)でてしばし留錫(りゅうしゃく)をなし、また尾州あたりに錫(しゃく)を留(とど)められたこともある。その後、東京駒込吉祥寺山内、栴檀林(せんだんりん)の加賀寮に掛錫(かしゃく)しておられたそうである。この、加賀寮で三年の間、師は熱心に勉強せられたので、この時の逸話は別項において語るつもり。
師は、文政四年の冬、周防(すおう)の瑠璃光寺にて立職(りっしょく)。この時、寅年の生まれとすれば、二十七。卯年の生まれとすれば、二十八。