文政九【1826】年は師の歳が二十九歳。同年の二月下旬には久しぶりにて広島に帰り、伝福寺の観光和尚と対面せられたところが、昔の腕白に引き替えておとなしくなられ、修行・学問・武道・強力(ごうりき)・書道・俳諧等、一から十まで「天下の物外」と言われる程、高名な人となって帰られたことゆえ、師の観光も非常に喜ばれ、昔の勘当をも許され、かれこれしている内に、済法寺に住職させたいという話しが持ち上がってきたものと見える。
然るに、一寺の住職となるのが、昔(物外和尚存命の時代)と今(著者高田道見老師存命の時代)とは、おおいにその手続が違っている。幸いその当時、運ばれた手続の書類が一・二済法寺の室中(方丈間)に残っていたから、一は当時の事情を知るため、一は後世の参考として、ここにそれを掲げてみようと思う。
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この外の書類は、寅年に差し出したる書類と同じ意味のものであるから略す。而して、文政十三【1830】の寅は、天保元年に当たるのである。以上の書類によって考えるに、師が済法寺住職とならるゝについては、五・六年もかかってようやく許可になったものと思われる。それというのが、少年の時、国外に放逐された嫌いがあったからの事かもしれぬ。然るに、またここに一つ、以上の反証となるべき書類がある。それは、左の通り。
この江湖会勧化(ごうこえかんげ)の趣意書は老師の親筆である。これを唯一の証拠として、天保十五【1844】の辰年より十七年已前にさかのぼれば、文政十一【1828】戊子(つちのえね)の年に初めて住職せられたものと考えられるのである。この時の老師の宝寿が三十五歳である。三十五歳より十七年目なれば、師が五十一歳の時、江湖会を執行せられたものと思われる。そうして、御住院はどうも文政十一【1828】年の方が確実らしい。
してみると、天保元年【1830】より六年頃までの間に、出願の手続をせられたのは、打ち消すべきものであろうか、活かすべきものであろうか。これは、たぶん、文政十一【1828】年に実際には入院せられ、天保元年以後に諸般の手続をせられたものと思量される。
然るに、一寺の住職となるのが、昔(物外和尚存命の時代)と今(著者高田道見老師存命の時代)とは、おおいにその手続が違っている。幸いその当時、運ばれた手続の書類が一・二済法寺の室中(方丈間)に残っていたから、一は当時の事情を知るため、一は後世の参考として、ここにそれを掲げてみようと思う。
1.
御調郡栗原村禅宗済法寺無住ニ付拙僧弟子物外後住ニ居ヘ申度済法寺檀那中相談上御願申上候。拙僧モ同心ニ御座候。間願之通相調候様宜敷願上可被下候。以上。 「御調郡栗原村、禅宗済法寺無住に付き、拙僧弟子物外を後住にすえ申したく、済法寺檀那中と相談の上御願申上げ候。拙僧も同心に御座候。あいだ、願いの通り相調い候様、よろしく願い上げ下さりべし候。以上。」 文政十三年寅五月 広島禅宗伝福寺 観 光 庄屋 延右衛門 殿 同 群四郎 殿 組頭 弥次兵衛 殿 同 卯平太 殿 同 豊助 殿 同 貞平 殿 同 幾平 殿 |
2.
拙僧者生所伊豫国松山ニテ父者松平隠岐守家臣三木兵太夫母者同家中森田太兵衛娘ニテ御座候。父母共未存生ニ御座候。 拙僧義出家望ニ付廿七年已前同所龍泰寺祖燈和尚之弟子ニ相成剃髪仕居候處此度當国中島伝福寺観光和尚ノ弟子ニ相成今年三十七歳ニ罷成候。只今迄諸国遍歴仕候處此度御調郡栗原村禅宗済法寺無住ニ付拙僧ヲ後住ニ居ヘ申候段檀那中ヨリ御願申上候。 拙僧モ望ニ御座候。間願之通相叶候様御願被仰上可被下候。以上。 「拙僧は生所伊豫国松山にて、父は松平隠岐の守家臣三木兵太夫、母は同家中森田太兵衛の娘にて、御座候。父母共に未存生に御座候。拙僧義、出家望むに付き二十七年以前、同所の龍泰寺祖燈和尚之弟子に相成り剃髪つかまつり候處、此の度、當国中島伝福寺観光和尚の弟子に相成り、今年三十七歳ニ罷り成り候。只今まで諸国を遍歴つかまつり候處、此の度、御調郡栗原村禅宗済法寺無住に付き、拙僧を後住にすえ申し候の段、檀那中より御願申上候。拙僧も望むらくに御座候。あいだ、願いの通り、相かなう候様、御願仰せ上げられ下さりべし候。以上。」 文政十三年寅五月 広島禅宗伝福寺観光和尚弟子 物 外 庄屋 延右衛門 殿 同 群四郎 殿 組頭 弥次兵衛 殿 同 卯平太 殿 同 豊助 殿 同 貞平 殿 同 幾平 殿 |
3.
御調郡栗原村禅宗済法寺無住ニ御座候ニ付広島禅宗伝福寺観光和尚弟子物外僧後住ニ居ヘ申シ度檀那共同心之上御願申上候間願通被仰付被下候様宜敷被仰上可被下候。以上。 「御調郡栗原村禅宗済法寺、無住に御座候に付き、広島禅宗伝福寺観光和尚弟子、物外僧を後住にすえ申したく、檀那共に同心の上、御願い申し上げ候。あいだ、願いの通り仰せ付けられ下さり候様よろしく仰せ上げられ下さりべし候。以上。」 文政十三年寅五月 済法寺旦那惣代 吉 和 浜 勘三郎 印 尾道 大阪屋 平兵衛 印 同 木原屋 幸 助 印 庄屋 延右衛門 殿 同 群四郎 殿 組頭 弥次兵衛 殿 同 卯平太 殿 同 豊助 殿 同 貞平 殿 同 幾平 殿 |
4.
右者當村禅宗済法寺無住ニ付広島禅宗伝福寺観光和尚弟子物外後住ニ居ヘ申度尤本寺之義者武蔵国葛飾群下野村瑞光寺ニ御座候。此度物外住職之義本寺同心ニ御座候。得共遠国故書附指出シ不被申候。得共済法寺旦那共書附之趣吟味仕候處相違無御座候ニ付取次差上申候間願之通被為仰被下候ハゝ有難可奉存候。以上。」 「右は當村禅宗済法寺無住に付き、広島禅宗伝福寺観光和尚弟子物外を後住にすえ申したく、尤も、本寺の義は武蔵国葛飾群下野村瑞光寺に御座候。此の度、物外住職の義、本寺も同心に御座候。とくと、遠国のゆえ書附を指し出し、申せざるに候。とくと、済法寺旦那も共に書附の趣き吟味つかまつり候ところ、相違なきに御座候に付き、取り次ぎ差し上げ申し候。あいだ、願いの通り仰せられ下されそうらわば、有り難く存じ奉るべし候。以上。」 寅 五 月 庄屋 延右衛門 同 群 四 郎 組頭 弥次兵衛 同 卯 平 太 同 豊 助 同 貞 平 同 幾 平 西 山 造 酒 様 野 田 瀧 之 介 様 落 合 萬右衛門 様 |
5.
覚 豫州松山龍泰寺祖燈和尚弟子物外僧弟子ニ仕度奉存候。同人モ納得仕候間此段相調候様宜敷被仰談可被下候。以上 「豫州松山龍泰寺祖燈和尚弟子物外僧を弟子にしたく存じ奉り候。同人も納得つかまつり候。あいだ、此の段、相調い候様、よろしく仰せ談じられ下さられるべし候。以上」 卯 三 月 伝 福 寺 国泰寺御役寮 |
前書之通願出候間此段相調候様宜敷被仰上下候。以上 「前書の通り、願い出でし候。あいだ、此の段相調い候様、よろしく仰せ上げられ下さり候。以上。」 八 月 国 泰 寺 印 両御奉行中殿宛 |
右豫州松山龍泰寺弟子物外ト申僧弟子ニ仕御當地住居仕度段願出之趣承置候條可為勝手次第。 右之通被申渡有之候。以上。 「右、豫州松山龍泰寺弟子物外と申す僧、弟子に仕り御當地に住居したき段、願い出の趣き、承置し候。條、次第は勝手なるべし候。 右の通り申し渡せられ、これあり候。以上。」 卯三月廿八日 松 野 唯 次 郎 石 原 司 馬 蒸 市 川 彌左衛門 国 泰 寺 様 |
6.
覚 拙僧者生所伊豫国松山ニテ父者隠岐守殿家臣三木兵太夫母者同家中森田太兵衛娘ニテ御座候處去ル午ノ七月死去仕父ハ存生ニ罷在候。拙僧モ出家懇望ニ付同国禅宗龍泰寺祖燈和尚ノ弟子ニ罷成剃髪仕其後當国同宗中島伝福寺観光和尚嗣法弟子ニ相成申度段御願申上候處卯ノ三月御免許御座候處此度御調郡栗原村禅宗済法寺無住ニ付拙僧ヲ後住ニ居申度段同寺檀中ヨリ相願申候。拙僧モ懇望ニ御座候間願之通リ相叶候。宜敷被仰上可被下奉願候。以上。 「拙僧は生所伊豫国松山にて、父は隠岐の守殿家臣三木兵太夫、母は同家中森田太兵衛娘にて御座候ところ去る午ノ七月に死去仕り、父は存生に罷り在り候。拙僧も出家懇望に付き同国禅宗龍泰寺祖燈和尚の弟子に罷り成り剃髪仕り、其の後、當国同宗中島伝福寺観光和尚嗣法弟子に相成り申したくの段、御願い申し上げ候ところ、卯ノ三月に御免許を御座候ところ、此の度、御調郡栗原村禅宗済法寺無住に付き拙僧を後住に居え申したくの段、同寺檀中より相願い申し候。拙僧も懇望に御座候。あいだ、願の通り相叶い候。よろしく仰せ上げられ下されるべく願い奉り候。以上。」 天保六【1835】年未八月 広島伝福寺観光和尚弟子 物 外 印 |
この外の書類は、寅年に差し出したる書類と同じ意味のものであるから略す。而して、文政十三【1830】の寅は、天保元年に当たるのである。以上の書類によって考えるに、師が済法寺住職とならるゝについては、五・六年もかかってようやく許可になったものと思われる。それというのが、少年の時、国外に放逐された嫌いがあったからの事かもしれぬ。然るに、またここに一つ、以上の反証となるべき書類がある。それは、左の通り。
御調郡栗原村済法寺開山者國泰寺十一世笑道和尚 體國院様御引導ノ師ニ御座候。然ル所御當座御法事諸家様並ニ御家中御香奠ヲ以テ國泰寺輪蔵一切経被致御寄附既ニ同御香奠ヲ以テ済法寺建立ニテ被隠居依而シテ體國院御尊牌被奉安置附而者御紋附御幕御釣燈等モ傅来仕従夫以来朝幕不怠御回向奉仕ニ御座候。就中當住拙僧義拾七年以来住職仕候所無檀之摂寺ニ御座候故諸堂修繕等モ行届不申。體國院様御位牌堂雨洩座上床モ落居申諸堂共ニ角々ヨリ竹抔モハヘ上リ住職ノ甲斐無御座歎ケ敷次第ニ奉存。 然ル所當冬十月ヨリ来ル巳正月十五日迄江湖会執行仕候ニツキ何卒町方一統勧化御着帳被下候得者御位牌堂始メ其外諸堂少々ノ取繕ヒ仕度奉存候。御時節柄之義ニハ御座候得ドモ御由緒モ御座候摂寺ニテ御座候間此段宜奉頼上候。以上。 「御調郡栗原村済法寺開山は国泰寺十一世笑道和尚にて 体国院様の御引導師に御座候。然る所、御當座御法事の諸家様、並びに御家中御香奠を以て国泰寺輪蔵一切経を御寄附いたされ、既に同御香奠を以て済法寺建立にて隠居され、よって而して体国院様の御尊牌を安置し奉られるに附き、而しては、御紋附き御幕・御釣燈なども傅来仕従し、それ以て来朝幕怠らず、ご回向奉仕に御座候。なかんずく當住拙僧義、十七年以来、住職つかまつり候ところ、無檀の摂寺に御座候ゆえ、諸堂修繕なども行届き申さず。体国院様御位牌堂も雨が洩り、座上床も落居申し、諸堂共にすみずみより竹などもはえ上がり、住職の甲斐なく、御座は歎かわしい次第に存じ奉る。 然る所、當冬十月より来る巳正月十五日迄、江湖会執行仕り候につき、なにとぞ、町方一統の勧化御着帳を下されば、御位牌堂を始め、そのほか諸堂少々の取取り繕いをしたく存じ奉り候。御時節柄の義には御座候えども御由緒も御座候の摂寺にて御座候。あいだ、此の段、宜しく頼み上げ奉り候。以上。」 済 法 寺 物 外 |
この江湖会勧化(ごうこえかんげ)の趣意書は老師の親筆である。これを唯一の証拠として、天保十五【1844】の辰年より十七年已前にさかのぼれば、文政十一【1828】戊子(つちのえね)の年に初めて住職せられたものと考えられるのである。この時の老師の宝寿が三十五歳である。三十五歳より十七年目なれば、師が五十一歳の時、江湖会を執行せられたものと思われる。そうして、御住院はどうも文政十一【1828】年の方が確実らしい。
してみると、天保元年【1830】より六年頃までの間に、出願の手続をせられたのは、打ち消すべきものであろうか、活かすべきものであろうか。これは、たぶん、文政十一【1828】年に実際には入院せられ、天保元年以後に諸般の手続をせられたものと思量される。